ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

2月5日版『夢十夜』

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嘘ばかりついているからという理由で、名前をとられた。

 

とられたのが名前だったのは少々意外な感じで、困ることもないだろうと3年ばかりほったらかしておいた。一向悩ましいことも起こらない。あいかわらず嘘を売り売りして暮らしている。

 

ところがある夕暮れに、晩菜をつつきながらごろごろとしていると人がやってきた。こういう人を探している、と玄関先で紙切れを取り出して見せてくる。

住所の番地から何からすべて我が家のこの部屋に相違ないけれど、名前だけが不確かなので、仕方なくそのようにこたえた。

相手は変な顔をして、じゃあこの部屋の大家さんにでも聞いてきますから、と引き上げていく。やれやれと思って、自分はまたごろりと床に転がった。

 

それから幾日かして、大家とその人がまたやってきた。ふたりとも少し様子がおかしい。けれど、気にしても仕方がないので何も言わなかった。

こないだの人があの時の紙切れをまた目の前にひらひらさして、これはあなたとは違うのかと同じことを聞くので、名前のところだけは自分でもはっきりしないのだ、とこちらも同じ答え方をする。

すると、その人は大家と顔を見合わせて、ほらね、という具合に目配せをする。こちらとしては正直にありのままを言ったまでだから、何もやましいことはない。ふたりはまずいものでも食べたように口を曲げて押し黙っている。

 

「いや、そういうことになると、いろいろ不都合が出てきますよ」

大家はこちらが言ったことを疑っているようだ。隠しごとをしてもお互いに何の得にもならないのだという口ぶりである。あんなにはっきりと言ってやったのに。よく知らない人の方は、こちらの肩越しに部屋の奥をちらちら覗いている。狭い部屋だから見るほどのものはない。

 

「不都合とは何です」

まさか名前がないというだけで部屋を追い出す気なのか。そう思ったら、何だか急に腹が立ってきた。自分は嘘つきではあるけれども、家賃をごまかしたり、払いを滞らせたことは一遍もない。この際だから、何が不都合なのかはっきりさせておく必要がある。

 

こちらが喧嘩腰になったのを認めると、ふたりとも急にひるんだ。おまけに大家は部屋を追い出すつもりなど毛頭ないと言う。

それならば何の用かと問いただすと、今度は大家が紙を出してきた。先日の紙切れに比べると、だいぶ古びている。

 

折りたたまれたものを広げたら、そこに我が家の住所と誰それという名前が記してある。先日見せられた紙切れと同じ名であるから、その名に何かあるのであろうと直感したら、自分の怒りもおさまってきた。

 

「そこに、そら。その人の大家、と書いてあるでしょう」

大家が指差した紙切れのはしを見ると、たしかに住所と名前のあとに、「右に記す人物の大家」と朱書きしてある。

 

「それが、わたしの身分というか、目印でして。あなたがその人でないとなると、わたしはじゃあ一体誰の大家なのか。わからなくなって困るのです」

 

聞けば大家も紙を持って訪ねてきた人もまた自分と同じく名無しであった。最初にやってきた人の紙には、大家の紙と同じように、住所と名前のその脇に「右に記す人物を訪問する客」とある。

 

ふたりともあんまり悲愴な面をして、事情を洗いざらい打ち明けると玄関先に突っ立ったまま、黙りこくって動かない。

名前をとられるというのは、つまりこういう仕打ちなのか。自分はそこでようやく合点がいった。

 

※本作は2014年に開催された「夏目漱石読書会」にて、漱石の『夢十夜』へのオマージュとして発表したものです。

内田樹『困難な結婚』 自分と離婚する方法。

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タイトル買い!内田樹『困難な結婚』

バツイチ、シングルファーザーにして、信頼のおける現代の語り部。

内田樹さん。(現在は再婚されているのでシングルじゃないけど)

 

政治から宗教からカルチャーまでを幅広く網羅する内田さんが「結婚」について語る。
しかもご自身の体験談を交えながら。

そそられる!

 

『困難な結婚』

見事な、このあまりに見事なタイトルが、憎い。憎いよ!内田さん!

 

というわけで、「結婚、離婚を経て、再婚。」
世間的にもよくある私の個人的なプロフィールではあるのだが、現在に至るまで辛くて文字には書き起こせない、涙なしには語れないアレコレがあった。だから現在進行形の結婚生活に波風が立てば、いやでも「結婚」に対してあれこれ考えてしまう。


「離婚」

そんな2文字が日常的に浮かぶこともある。
(うーん、いけない)

さすがにまた「離婚」という選択肢を選ぶのもどうか。
そんな動機から本書を手に取ってみた。
(ん?深刻?)

 

「結婚は自分というファンタジーの墓場」

 

「結婚は人生の墓場だ」とか言われたりもする。
(最近はあまり言わないのかな)
本書を読んで、私はこの皮肉めいた言葉を案外悪くないなぁと思った。

というのも、この「結婚=人生の墓場」を内田流に言いほぐすと、結婚によって死ぬのは、「私、という超個人的な縄張り意識」であって、それが死ぬことで人間は成熟を遂げることができるんだよ、と何ともポジティブな解釈をされていたから。

この本では繰り返し「確固たる自分」だとか「本当の自分」なんてない、という事が語られている。それはつまり結婚を通じて「自分」というファンタジーとお別れしなさいよ、大人になりなさいよ、というメッセージである。

結婚はいわば、それまでの人生で築き上げた「自分」という堅牢な根城を解体工事する作業。そりゃあ困難だし、すんなりいかなくて当たり前。他人と離婚するのもそれなりに大変だけれど、自分と離婚する苦労に比べれば全然大した事じゃない。

 

自分と離婚する方法

 

リスクヘッジとしての結婚、結婚の公共性、結婚相手をどう選ぶか、家族とは何か。

この本に書かれているのは、汎用性の高い一般論やハウツーマニュアルではなく、
内田樹という個人の経験則に基づく「結婚観」であり「家族論」だ。

それでいて、そうかそうか、内田先生はそのように思っていらっしゃるのね、ほうほう、と軽く流そうとすると、
「離婚してもまた同じことが待っていますよ」
ぶすっと図星をつかれたりする。
(そうですね。私も薄々わかってはいました、と反省)

 

そそり立ったその自我を、ふにゃんと曲げてごらんなさい。メディアによって毒された、ファンタジーマインドをお捨てなさい。

それが、私が本書で学んだ内田師範からの教え。
困難だとは承知の上で、実践するのも悪くない。

(それにしても、夫婦における性生活については結構重要なファクターだろうに、そこで多くを語らず。そのボカシ加減がかえって生々しいとか思ったのは私だけだろうか)

たとえばゼリー状のまま、人間関係を放置。

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人と人とが向き合うことは果たして良いことなのだろうか。

 

がっちり向き合うと壊れてしまう関係がある。

お互いの立ち位置をはっきりさせよう。

そう思って踏み出した途端、出口なき迷路に投げこまれてしまう。

そんな関係もある。

 

謎は解けて、犯人が定まり、善悪の色分けがくっきりとなされる。

 

すべてがそんな風にいくならば話は簡単だけれど、それはフィクションの中だけのお話。

 

実際の人生は、はじめから答えなど出ないようにできていて、だからこそ一時的な、その場しのぎの回答を、自信なく足元に書きつけながら、ひとまずは歩き続けていかなくてはならない。

パンくずを目印に森の奥へと進んでいったヘンゼルとグレーテルのように。

 

曖昧模糊とした人生の輪郭を定めようと、私たちは判然としないものたちに名を与え、ひとまずはその姿に安堵し、目の届かない場所へとしまいこもうとする。

 

それはまるで空気に色をつけようと試みるようなものだ。

 

生きることのよるべなさに抗う仕草。

 

それを私たちは無意識にやる。

 

だからこそ、その「よるべなさ」が人間の形をして現れるとき、出来事として降り注ぐ時、私たちはたじろぐ。迷う。

それがいったい何であるのか、言葉にもできず、ただ立ち尽くす。

 

そして思い出すのだ。

正解はない、というその事を。

 

人生というフィールドにはただ選択肢だけが転がっている。

 

どれを選んでも、その中に絶対など存在しないことだけが、ただ知らされている。

 

その仕組みを親切ととるか、不親切ととるか。

そんなものがどうしたと強気に払いのけるのか。

 

自分ならいったいどうだろうかと考える。

お日様不在の雪氷学。

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雪と氷の専門家に会うために、電車に乗って。
石の結晶ロードをかちりかちりと踏みしめて土曜日。
手に入れたばかりの「雪氷辞典」にその人は、名前を連ねているのだった。

 

オーロラの仕組みや、極地でのサークル活動、新聞部、栽培部、ごはん部、けんか仲裁部、南極大陸をジグザグに飛ぶ自動操縦飛行機があそこに、などと、指先をあっちへこっちへとレクチャー。
そして、あなたを連れてきたのはどんな不思議なのでしょうと、ぐるりと展示室を見て、あれか、と一枚の地図を発見した様子。あれです。と心に思いながら、その人についていく。

それは地球の神秘をあらわす謎の地図。

ちょっと私が最近夢中な、あの地図。
実はね、この湖の名前をつけたのは、わたしなのさ。


ふふふ。とは言わなかったけれど、その人は。

ふふふ、という感じなのだろうと私は察知しました。


氷の下に埋まっている太古の湖の中には、何億年も昔の色が、空気が、温度が、音が、溶けて溶けて溶けているのだ。
もやもやと溶けて。
こんこんと溶けて。


ああ好きですこの時間が、と思いながらその人を見ると、火星の隕石がよくとれる場所はここ、などとまた指を動かして、ちっとも私の好奇心の行方には無頓着。彼は。

それから?
これはサービスですよ、と言って秘密の立体模型で秘密の氷の話をしてくれました。
わたしがサービスという言葉の意味を考えているうちにお話はどんどんと進んで、うちの研究所の内線の6番が地球の自転軸のほとりにつながっているのだ、などと、ファンタジーっぽいことをおっしゃるのですが、それが現代科学の事実なのですから。すごいのだわ。


東京のへんぴな、裁判所とか、区役所とか、あとはバス停、くらいしかない殺風景な場所から、地球のてっぺんにある、オーロラとかうじゃうじゃ出る、冷凍庫の最中、みたいな地点にハローハローハロー可能。なんですって。

どっひゃ。

 

牧歌的に描くなら、これもまたメルヘン。

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晩に食べる米がなくて両親が揉めているなどというのは少女時代ありふれた日常の1コマであったが、今にして思えば家庭経済がそれなりに逼迫していたという事実をよく表している。

 

経済がうまく回らないとなると、どんな人間も余裕をなくすのは世の習いであろうか。

家人の行動がそれぞれに常軌を逸していたことは今となっては明らかである。

 

あるときなど私が小学校から帰ると台所に立った母が流しで家中の皿を割りまくっていたこともあるし、夜中に父親が自分の掛布団と敷布団を一式家から持ち出して、朝までひとり車中泊していたこともある。

小遣いを持つようになった私が時折書き置きをして失踪することもあったが、母もまたよく家出していた。

深夜、スクーターにまたがっての発作的な家出。

何があったのか聞いてみると、その理由はいつも漠然としている。

だってお母さん毎日面白くないんだもん、とか言う。

 

経済の困窮も久しくなった今でもときどき母は、午前0時を過ぎて栃木のファミレスの公衆電話から東京の娘の携帯に着信履歴を残したりする。

そんなとき私はまた何か人生が面白くないのか母は、と思いながら栃木在住しっかり者の弟に救助を依頼して寝る。

つい数か月前などは家族に内緒でタクシーを呼び、母は宮城の被災地に単身乗り込もうとした。

足が悪いので玄関を出たところで歩けなくなって未遂に終わったが。

自力で歩行することもままならぬ身でいったい何をしに行くつもりだったのかは謎だ。何かしなくちゃと思った、とは母の弁解。

 

こうして考えると、母の単独行動だけは我が家の経済とはまた別問題かもしれない。

 

私が結婚してから、母はやたらと皿を送ってよこす。

あんたの家には皿が足りないから、などと手紙を書き添えて。

 

割る用の皿か?と訝しがりながらも有難く頂戴する。

今のところ、それらは食事にしか用いていない。

朝吹真理子『きことわ』 文学小説って情報じゃないよ。

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最近になって、2011年に芥川賞をとった朝吹真理子さんの「きことわ」という小説を読んだ。

 

いつまでも読み続けていられるような、にごりのない、透徹した文章世界に引き込まれ、切り取られた見知らぬ人の人生を、ほんの束の間生きて味わっているかのような心地で読み進んだ。

 

しかし、個人的にはとても深い満足感があった本作について各所のレビューなどを読んでみると、「中身がない」「作者の言いたいことがわからない」というような感想もあると知って複雑な気持ちに。(もちろん素晴らしいと絶賛しているレビューもある)

また、本作と芥川賞を同時受賞した西村賢太さんの「苦役列車」のほうが断然「伝わってくる」し、「面白い」とする意見もわりと散見された。

 

まあまあ確かに西村賢太は面白い。

「人間どんなにかっこつけたところで畜生風情と何が違うのだ」

そんな開き直りと同時に、「畜生が高潔に生きて何が悪い」という恨み節のポーズを喜劇に変えて作品にできるのは彼が空気を読めるエンターテイナーだから。

この人モテそうだな、とテレビに出ている西村賢太を見るたびに、モテない枠で笑いをかっさらっていく芸人さんに漂う色気と同じ匂いをくんくん嗅いで私は激しく欲情する。

 

話がそれた。

まあそんなキャラの違いもあり、また作風の違いもあり、今回「きことわ」で朝吹さんの小説を初めて読んでみて、私はこの二人が芥川賞の同時受賞となったことは大いに納得。むしろ二人揃っての受賞が必須だったのではないかという結論さえ出る。というのも、この二人の作風の違いは,現代小説がどんな役割を担っているかという実情をはっきり提示する、象徴的なものだったからだ。

 

先に書いたように一般読者の朝吹作品に対する風当たりは西村作品に比べ冷ややかに感じた。

 

「言いたいことがよくわからない作品」

と拒絶されたり、

小説で伝えたいメッセージなどない、という朝吹さんの創作態度が否定的に受け取られるのは、いったい何故なのだ。そりゃあ賢太に比べたら朝吹さんに親近感は湧かない。なんか殿上人っぽいし。でも、作品を読めばいやでも一目置いてしまうけどな。好き嫌いは別として。泥臭い西村さんと洗練された朝吹さんとで明らかに割り食ったのは朝吹さんな気がしている。

 

さて。ザ・私小説作家という感じの西村さんと,名門朝吹家(色々なインテリ輩出家系らしいです、よく知らないけど)の出身という真理子さんのキャラクターや出自の差は、とりあえず脇に置いておくことにして。今回は朝吹さんの小説を材料に、小説の機能を考えてみたい。

 

まずは2つの作品に対して、読者の反応がはっきり二極化する理由を分析してみた。

あくまで私見だが,その背景には,

①小説という表現形式の持つ複数の機能(目的)

②その機能への理解がなされぬまま、読者各人の裁量によって小説が読み解かれることの弊害

という2つの要素があるように思う。

 

①小説という表現形式の持つ複数の機能(目的)

 

これは単純に言うと、小説は何のために書かれるのか。ということだ。

そもそも小説は言葉で書かれており、言葉である以上それは「意味(情報)」を持つ。この「意味(情報)」によって、小説は物語を構成することが可能になる。

 

しかし、小説における言葉には情報を伝える以外にも、言葉によってイメージを喚起し、その喚起したイメージによって、文字で書かれていないものを読者の頭の中に再構成する、という働きがある。

 

多くの文学小説は、情報の伝達とイメージの喚起とを同時にやっている場合が多いように思うか、小説において必ずしも物語の構築というのは必須ではない。(数年前に芥川賞を受賞した黒田夏子さんの『abさんご』なんて、その最たる作品だ)

 

「言語によるイメージの喚起」に比重を置いて、物語性を排した作品においては別の尺度での価値が認められる。(しかし、そういう作品を鑑賞するだけのリテラシーが一般化していないのも事実。)

 

言うまでもなく、朝吹さんの作品は物語性よりも言語のイメージ喚起力に比重が置かれている。

 

②その機能への理解がなされぬまま、読者各人の裁量によって小説が読み解かれることの弊害

 

多くの場合、「小説を読む」=「そこから意味や物語を読み出だす」というやり方が広くとられているが、「意味」や「物語」ではないものを構築している小説の場合、それでは作品の意図と読者の理解との間に齟齬が生じる。

 

この場合、読者は読み出だすべきものが存在しない小説を不良品と見なすだろうし、そもそも作品を評価するための物差しをはじめから持っていないということにもなる。

(だから、この場合に作品に対して拒絶や酷評が行われたとしても、それはその読者の小説リテラシーの不足を意味するだけで、必ずしも審美眼の欠如を示唆するものではない)

 

朝吹真理子さんの「きことわ」という作品は、人間の意識の在り方、その流れを言語に置き換えて追体験できるように配慮された装置である。

 

作中では、過去のある地点が、次の文章ではいつの間にか現在になり、そしてそれが夢か現実なのかもよく分からない、といった描写がところどころに用いられたりしているが、そこまであからさまでなくとも、登場人物の意識の運動にあわせて出来事の遠近が自在に切り替わっていき、その切り替わりの連続した集まりを人間の意識は一本の糸となってつらぬいていく、といことを読み手は体験する。

 

つまり「きことわ」は実に丁寧に造られた人間の「意識」の雛型だ。

 

おそらく「小説で伝えたいことはない」と朝吹さんが言うのは,彼女の小説の目的が言語化できる情報や物語ではなく、言語を通じてなされる一つの体験を小説によって作ることにあるからなのだと思う。

 

そしてそういった作品づくりを「言語化可能な物語」が成り立つギリギリの地点まで攻めようとしているところがチャレンジャーだし、結果的に誤読されやすいという事態を招いている。(逆に攻めすぎて理解不能となった小説の方がかえってわかりやすいのか、「前衛」として評価されたりするのが皮肉だ)

 

というわけで、すぐれた小説が何かという定義は難しいが私は小説の目的を高いレベルで達成しているという意味で、「きことわ」という作品は非常に高品質な良作だと思う。

 

それにしても「きことわ」のような小説の楽しみ方が、小説とか読みます、と仰るユーザー層にも一般化していないことは残念だし、文学と括られるジャンルがマニアックなものとして捨ておかれる事はそこに従事する人間として忍びない。

そして、ふだん人の書いたレビューなどあまり読まないのだけれど、たまたま目にした感想群が小説に対してあまりに無理解なのがちょっと悲しくて、その悲しさの源を辿っていくと、それは「好き嫌い」以前に「よく分からないものは排除する」という思考に対する悲しさと怖さだったりする。 (よく分からないけど面白い、に転べばいいなとは現時点で希望的観測。)

 

読者の鑑賞筋肉がぞんぶんに鍛えられてこそ、良質な作品が育まれ、より良い評価を受けることになるだろうし、駄作は自然に淘汰されるだろうと思う。もちろんそれは小説に限った事ではない。

やはりどんなものにも入門書があるように、小説を読むにあたっても素晴らしいものについて、何がどう素晴らしいのか、を手引きする指南書が必要なのかな。 小説家の保坂和志さんとかがコツコツとそういう手引きを書き続けてらっしゃって、それもまた作家の役割だから、と引き受けているのが愛だな、と思う。

 

(この記事は2012年に執筆したレビューを加筆修正したものです)

病を得るということは。

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考えようによっては重たく、見る人によっては取るに足らない、そんな持病をこの二十年来、ぶら下げて生きている。

医者にかかって処方箋をもらうこともできれば、自力でなんとか見て見ぬふりの痩せ我慢をできないこともない。そういうたぐいのものである。


少し以前の何年かはその病を忘れたように平然とすごしたが、やはりのどに刺さった小骨のように、生活のふとした場面でのびのびと自由に振る舞うことをぐいと押しとどめるのはその症状がやってくるであろう不穏な兆しだ。ようするに不便だという一言につきる。それでしかたなく、医者嫌いを返上し、問診票の前に座り、薬代を払うことを数年ぶりにきちんきちんとやり始めた。

それにしてもいったいどこで、私はこの病を得たのだろうか。
考えてみても、一向にわからない。

清く正しく生きてはいても、思いがけぬ不幸の穴へと転がり落ちることはある。
いや、むしろそういう無防備な足取りこそが、油断というものかもしれない。
病はどうあがいても避けられず、問答無用で肉体へと配達される小包なのだと、この頃はそんな気がしている。

どこの誰が送ったものか、残念ながら小包の差出人は知るよしもない。
贈答品をむやみにもらう趣味はないが、気が付けば小包を受け取っていた私は、それをどこぞに送り返すこともできず、まずは中身の取り扱い方を学ぶことを余儀なくされた。

いつかこの荷物を集荷にやってくる人はあるのだろうか。
はじめはいつもそう思った。が、だんだんと諦める気持ちへと心が流れた。あてのない希望や期待は、何より自分の心を苦しくする。私はそれを身を以て知った。

気まぐれに、この持病を誰かに話して、試すようなことがある。
何を試そうというのか、自分でもはっきりとわからないまま、私はこんな厄介を抱えている、ということをぱらぱらと口が喋って、せいせいしたり、不幸に酔ったり、場合によっては少し後悔をする。たいがいは後悔が多いかもしれない。

人によっては同情してくれたり、動揺を取り繕うような顔を見せることもある。思っていた相手が、思ったのと違う反応を見せると、喋ったことそれ自体に、少なからず意味があったような、そんな気にもなる。ほら、面の皮のしたに隠してあったものが、こんな拍子に飛び出すじゃないか。意地悪く、そんなことを思い、相手を軽んじたりもする。そういう時のこの病は道具だ。自分の病を持て余して、やり切れない、いじけ者が振りかざす、ちゃちな武器だ。

そんな風に病を使ってみたところで、根本はびくとも動かない。足枷をはめられた囚人のように、私という肉体はいつ終わるともなく、この理不尽な独房につながれたままでいる。

この病は物言わぬけれど、私の永遠の伴侶であるのかもしれない。時々そんな事を思う。
この病によって、私は不自由であり、だからこそ地に足がつき、ほかの人間の弱さを他人事とは思わず、いたずらに蔑まずにすむ。

 

謙虚というものを、私は間違いなく、この病から得た。
あまねくすべての人間が、その小包の送り先であるのならば、それと格闘することもまた自然のなりゆきであろうとは思う。しかし、それが沈黙する教師のように機能するとき、病がもたらす不便は、思いがけず変化し、生きていく道の心の杖ともなりうるように思う。