私は記憶。
地上の滅びたシーンたちが、私の中にまとまっている。
スケッチブックのように綴じられて。
あなたは時間。
私を切り取り、選り好んで、参照する。
美しいシーンを増やすのが、あなたの仕事。
そして私たちは人間。
世界を未来から過去へと変える、素晴らしい機械。
私は記憶。
地上の滅びたシーンたちが、私の中にまとまっている。
スケッチブックのように綴じられて。
あなたは時間。
私を切り取り、選り好んで、参照する。
美しいシーンを増やすのが、あなたの仕事。
そして私たちは人間。
世界を未来から過去へと変える、素晴らしい機械。
口説かれるのは退屈。
もっと絶望してください。
自販機のぼたんをおや指で押すみたいに、
手に入れようとする。
無邪気だからやめて。
そんなしぐさは。
きっと不謹慎な人がすてき。
手のひらでこすって。
花を摘むかわりに、
永遠に取り消す。
安全地帯の白い線を。
永遠に取り消す。
この世界に足らぬものを。
それを示す線を。
愛の棒読みが好きみたい。
絶望のない人。
あなたのことがきらいです。
だって平和だから。
きっとお菓子みたいにわたしを
楽しんで終わるから。
だいじょうぶ、
だいじょうぶと言う君の心臓が血液をこぼす。
殺してくれと鳴き叫んでも、もうだいじょうぶだよ。
殺すかわりに僕は愛す、きみもきみのじんせいも。
「優しさなんて、きぶんの問題。」
小学5年生の君が、宿題のドリルをめくりながら顔も上げずに言い放ったのは夏の終わり。
「大切なものが目に見えないなら、目って何のためにあるの。」
教訓を散りばめたフィクションに悪態をつくことを覚えて、すっかり反抗期だと君が宣言したのが秋のはじまり。
優しさも気分も反抗期も、ぜんぶそのまま丸め込みたいと大人は無邪気に考えている。
たとえば、タイムマシーンを作ったりして。
この秋に離縁する予定の夫へ久々に電話をかけて、夜通し無駄話をした。
無駄話と書いてはみたものの、それが本当に無駄なやり取りだとは露ほども思っていない。
持ち上がる話題やその広がり方がいちいち面白く、次の日もまたお互いに労働や勉学に勤しむ身でありながら、深夜の長電話を切り上げる気配すらなく、ときおり興奮気味にあれやこれや喋り続けた。
「遠くに行きたくなる映画」を紹介しあうイベント、とやらに参加してきたという夫は、世界中を放浪して「イースター島にまで行ってきた」という人の話が素晴らしくつまらない事に感動したらしい。
彼いわく、
つまらない人間は世界一周してもつまらない。
面白い人間は、家に引きこもって一歩も外に出なくてもめちゃくちゃ面白い。
「あれじゃモアイも可哀想だな、って思ったよ」
それで私が最近聞いた、知り合いの男友達の話を思い出した。
その子は10年ほど引きこもりを続けている30代の男の子なのだけれど、引きこもり状態のまま彼女を作り、そして家から一歩も出ることなくお付き合いを続け、やがて破局を迎えたという。
きっかけはオンラインゲームで仲良くなった子にゲーム内のチャットで告白し、見事成功!
その後は自らが引きこもりである事は隠しながら、オンラインゲーム内で彼女とアバター・デートによって愛を育んでいたそうな。
しかし盛り上がった彼女が「ゲームを離れてリアルに会おうよ!」と言い出したにも関わらず、ズルズル理由をつけて会わないでいたところ、痺れを切らした彼女にチャットで振られてしまったという。
究極のインドア恋愛。
やり切った彼にブラボーだ。
無人島に行ったとか、世界一周したとか、それはそれで何となくすごい。 だけど、家から一歩も出ないで彼女を作り、失恋まで経験してしまう彼のような人と私は友達になりたい。
彼の世界は物理的には狭い。
だけど彼の愛は壁紙を超えて、愛しい彼女のハートに届いたのだ。
(さいごまで物理的に距離を縮めるには至らなかったけれど、私は彼のラブ・ストーリーに笑いながら感動した)
長電話はあちこちに脱線した。夫とは他にも「運慶と鳥山明の絵の下重心がヤバい」とか「自分がバカだと自覚している人間の無敵感」だとか、あれこれ喋ったのだけど。
何より魂が喜んだのは、私が最近関わっているアートプロジェクトの話の流れで、
「僕はアートなんて、無ければ無いでいいと思ってる」と夫がさらりと言ってのけた時。ほんとにこの人は私のソウルメイトだなーと嬉しかった。
アートに興味がない人が言うなら分かるけど、夫はめちゃくちゃアートやデザインや芸術もろもろに造詣が深い(オタク気質)ので、そういう愛の深い人から「アート不要説」が出ると本当に救われる。
走るのが好きだから、マラソン大会出るわけで。
アートもやってたら楽しいから、やってるだけなのだ。
結果的に何かしら素晴らしい作品とか出来ちゃう事があるだけで。
別に無ければ無いで誰も困らない。
私たちの結婚もきっとそんな感じで、ある部分は続いていくのだろうし、終わる部分は終わるだけなんだな、とそんなことを思った。そして本日は十三夜である。
かの阿部定事件をモチーフにした本作は、日本的な極彩色の様式美を随所に散りばめた絵作りと、それを額縁のように引き立てる廓遊びの和の音色が美しい。
好奇をそそる男女の行く末を見届けるのにまったくふさわしい舞台装置のしつらえに、私はしばらく時間を忘れ、ずいぶん深く引き込まれた。すみずみまで行き届いた良作であった。
あまりに有名な事件を映画化したものなので、あらすじなどの詳細は省くけれど、私はこの映画を見た後、「愛」と「所有」ということについて、しばらくもやもや考えている。
男と女の間に生まれた「愛」の中には、お互いを所有し合う、相手の身も心も自分のものにしたい、という心の仕組みが少なからず、いや、大いに働くものだと私は思う。
しかし、個別の肉体と精神を持っている人間同士である限り、互いを完全に自分の所有物とはできない。
しかし、その不完全さこそが「愛」の悩ましい落ち度として、あるいは永遠に完成形を得られないからこその魅力的な建築物として、眼前にそびえ、我々を魅了し、ときに失望や落胆に襲われながらも、そこに自分の命のすべてを注ぎ込みたいような、激しい情熱をかき立てるのだとそのように思う。
「愛のコリーダ」において、主人公の定は愛人である吉蔵と際限なくセックスを繰り返し、己の欲望に応えてくれる吉蔵の身体を片時も離したがらない。
そんな定を甘やかすように、吉蔵は定のねだることを、まるでそれが自分自身の願いでもあるかのように許し、叶え続ける。
(定の願いの多くは、はじめは情事にまつわる実に他愛のない内容だが、やがて男の心を試すための挑戦的なリクエストとして徐々にエスカレートして、実に過激なものになっていく)
結末は周知のとおり、情事の最中に吉蔵を絞殺した定が、男の局部を切り取ったところで映画は終わる。
激しい愛の物語、とそのようにまとめることもできるし、愛人への執着に狂った女の行き過ぎた痴情事件、と捉えられなくもない。
しかし、映画を観終わってしばらくたつと、私は定という人にどこか悲しい妬ましさを感じている。それは単純な同情ではなく、憧れとも違う。やはり悲しさの混じった妬ましさ、という言葉こそがふさわしい。
定にとっての愛のかたちとは、文字通り吉蔵の肉体を自分だけのものとすることであったように私は思う。
妻のいる吉蔵に対して恨み言を言うときも、夫婦という彼らの社会的な関係性にではなく、吉蔵との肉体関係を半永久的に保証されている女の肉体に対する猛烈な嫉妬。
そのような印象を受けた。
事件後に警察に逮捕された阿部定の供述書によると、吉蔵を殺した後の彼女は「肩の荷が下りたように気持ちが楽になった」という内容を述べたという。
彼女は、生きている限りいつ心変わりするかもしれない吉蔵の精神を死によって肉体から削除したのだ。
そして、「愛」の証拠品として差し出された吉蔵の肉体が彼の気まぐれか何かによって、自分の手からいつ奪われるかも分からない。
そんな不安感から、定はようやく解放されて、安心したのに違いない。
そのあたり、定の心境はちょっとわかるのだけれど、自分だったら心中の方がいいかな~なんて思った。
さて。
総じて私は「愛のコリーダ」という作品で描かれた一組の男女の関係を、常に距離感をもって、自分とは違うものを見て生きている人間のお話として、呆然と眺めることしかできなかった。
私には定のように白痴じみた情欲への信頼もなければ、吉蔵のような人生への諦観もない。それどころか、「愛」という名のもとに他者を占有したいと願うときの自分を、どこか浅ましいものとして見下すような、半端な賢しらさだけを頼みに生きている。所有し合うことを願いながら、どこかその不可能に自覚的でいなければ愚かしいという醒めた気持ちが拭い去れない。
だからこそ私は、定という人に対して、本来不完全な形でしか存在しえないと思っていた「愛」の対象を、肉体という物質に限定させることで見事に完成させてしまった稀有な人間であることにある種の嫉妬をおぼえたのだ。
そして、彼女に成りかわることなど自分にはできないという実感と、これからも不完全な「愛」の仕組みの中でもどかしく生きていくしかないという憂鬱とに、ひしと掴まれ、まだ苛まれている。嗚呼。
※大島渚監督の作品は初めて見ましたが、破瓜の相手がこの作品で非常に幸運だと思いました。
そしてセックスシーンにぼかしがガンガン入る国内盤ではなく、海外無修正版で見るのがおすすめです。
この人も私と同じように、靴下をはいたり、歯を磨いたり、だれかと待ち合わせをしたりしながら生きているのだろうか。
食パンを焼きすぎたり、傘を忘れたり、ああなんか今日の髪型はイマイチ、とかそんなことを考えたりするんだろうか。
するんだろうな。
おそらく。
日常生活における行動様式の差異なんて俯瞰すればごく微々たるもので、最果タヒさんというこの人もまた、私やほかの人と同じように衣食住の枠組みの中で人間らしく生活を送っているのだろう。
けれど、そう分かってはいてもまだ私は、この人の存在がまるでフィクションに思えてしまう。
何かの間違いのように、夢でも見ているように感じてしまう。
閉じていた瞼を開いたら、はい夢でした、と誰かに言われるんじゃないかと、ちょっと怖くなってしまう。
だってこの人、天才だから。
天才的な文章、に出会っても。
この人は天才だったんだろうという死んだ人間の名前を知ることはあっても。
こうして自分の人生の中でリアルタイムで「生きた天才」に出会うことって実は奇跡に近いんじゃないだろうか。
最果タヒさんの詩集を初めて手にした時。
私はまるで地動説の終わりを宣言されたみたいだった。
見えている景色は変わらないのに、これまでの大前提がくつがえってしまう。
それは清々しいショックだった。
ああ、ここで世界は終わって、また新しく始まるんだな。
最果タヒの詩をおりなす言葉たち。
その組み合わせ。
語られる内容は、まだ埋まっていない世界を言葉で描出しながら、同時にまだ語られていない世界をふわりと示唆する。
それらをアウトプットする最果タヒという未知のOSの前に、私は観念した。
自分が得意になって使いこなしていたPCが突然古臭く、恥ずかしいものに思われて、思わず自分の言葉をすべてしまいこんで沈黙した。
「君の言い訳は最高の芸術」はエッセイ集、となっている。
けれど実際は、最果タヒの作品、と呼ぶ以外ふさわしい呼び名が見つからない。
そのくらい、この人の紡ぐものたちには、エッセイだとか詩だとかそういう区分けが似合わない。
だって天才なのだもの。
天才のために。
私たちはその作品を語るための新しい呼び名を発明すべきで。
そして、そんなことくらいでしか天才への畏怖を表すことができない。