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美しいって、なに? 長野県東御市、天空の芸術祭

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長野県東御市(とうみし)で行われている「天空の芸術祭」に行ってきた。

シェア・アトリエ「miraiva」のプロデューサー、mayuchapawonica・まゆさんの作品を観るべく。

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まゆさんが相棒のカヤノヒデアキさんと手がけていたのは、『名もない農家』という場所の一室を使ってのアート作品『空と海の家』。

 

場所は、芸術祭会場である長野県東御市にある民家の一室である。

 

地元の民家である『名もない農家』はもともと廣田美和子さん(通称・かあさん)の運営している場所。

訪れる人が、ふだん背負っている肩書きや立場、役割など社会的な文脈をいったん「off」にして、しがらみを解かれたニュートラルな自分でいられる場として、『名もない農家』はデザインされている。 

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そして、『名もない農家』を通じて個々人の内側に起こる変化、発生するコミュニケーション、それらの器として機能する『名もない農家』がどのように育っていくか。

 

その変遷自体を作品と位置づけることによって、関わる人すべてが『名もない農家』の一部となっていく。

『名もない農家』は日々その肉体を更新し続ける生き物のようだ。

 

今回、その生き物にまゆさんとカヤノさんは作品『空と海の家』を肉付けした。

更新された『名もない農家』は新しい部屋の完成直後からより深く呼吸し始めていた。

 

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芸術祭と呼ばれるイベントには、色々な役割がある。

地域振興だったり、人集めだったり、その土地のブランディングだったり。

そこで展開される作品も、だから様々だ。

 

私は長野にいる間、いや長野に行くと決める過程で、自分にとって、社会にとって、「アート」ってそもそも何、という素朴かつ本質的なクエッションに向き合う時間が多かった。

 

そこに美しさを孕むもの。

 

それが私にとってのアートの定義なのだけれど、その「美しさ」は単純に「造形的な美」「機能的な美」だけではない。

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私にとっての「美しい」は、それに触れたときに「自分が生きていることを思い出してしまう」ような力であり、さらに言うと「生きていること、それ自体が恩寵である」ことを気づかせる、そんな力のことだ。

 

だから、作品がぱっと見にはグロテスクであったり、造形的な美とかけ離れていたりしても、その作品に、はたと気付かせる力が備わっていれば、私はそれを美しいと思うし、アートだよな、と認識する。

(そういう意味で、さいきん私はすべての人がアーティストだと思うようになったし、逆にそう捉えることによって、かたくなに思えていた世界が溶けたり、人と人との境界線はお互いを隔てるものではなく、両者をつなぐものなんだな、と愛おしくなった)

 

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ひとりでも多くの人が自分の中に「アート」という概念を取り入れることで自由になれるんじゃないか。

いろんなものを「溶かし」、「混ざり」、別のものになったりできるんじゃないか。

 

そうなったら、「絶対」だとか「すべき」だとか「やっちゃいけない」みたいな息苦しいムードはゆるんで、「たぶん」とか「やってもやらなくてもいい」とか「むりすんなよ」みたいな余裕が生まれるんじゃないか。

そんなことをすごく思う。

 

アートや美術がマニアックな趣味の世界での鑑賞物だった時代はもう終わって、あまねくすべての人間が食べることや寝ることと同じように、生きるための道具として当たり前にアートを使う。

 

そういう段階にきているんじゃないか、人類は。

そんなあれこれを考えた長野への旅。

「巨大な雨の読書会」、その1

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名付けることは、存在の片棒を担ぐことでもある。

名を与えられた物は、者は、ものは、ものたちは。

おそらく自らの呼び名の来歴を知りたがるであろうし、仮に問うて名付けの由来について何がしかの回答を得たとすれば、繰り返しその中身を参照しつつ、生きていくのが自然なことだろうと思う。

 

それがゆえに名付け親というのは、産み落とすことをまた別の角度から行い、誕生したる不案内な魂がふいに命の文脈の網の目から転がり落ちて迷わぬよう、しかと座席に固定する。安全ベルトをしつらえる。

そんな役割を担っているように思う。

 

薄暗い土がぬかるみ続ける地上にて、今日も秋は営まれている。

 

名付けについてふと考えるに至ったのは、新しく読書会を始めるにあたり、その名を用意したことによる。

 

巨大な雨の読書会、というのがその名だ。

 

いったいどういう意味なのですか、という疑問の発生を良しとし、滞在先の古民家にて私が執り行うであろう読書会の呼び名として、早速これを広告した。

 

不可解な言葉の組み合わせに疑問符は付き物であり、私のような人間はその誤解によって生かされているふしがある。 

 

誤解は人を魅了して、燃料を足さずとも走る車のごとく便利だ。

大いに誤解を使いながら生きていこう。常常そのように思っている。

生じた疑問符について申し開きのように説明を付け足すことは、だから非常に野暮で無粋なことである。

そのように私は考え、名付けたきり、「巨大な雨の読書会」についても平静のごとくに説明を控えていた。

 

ところが名付け終えて明くる日、親愛なる人が私に問うた。

いったいどういう了見で、この名を与えて澄ましているのかと。

聞かれるままに名付けた名の来歴と説明不足の因果をその人に答えると、それをそのまま広告しなさい。

そのように勧めてくる。

 

野暮を強いられるのはきらいです、と私が抗うとその人はさらに言う。

名付けの由来を広告すれば、誤解はもっと走るでしょう。

そうなって、困ることがあるのですか。

困るよりも潤うでしょう。つけたその名が光るでしょう。

 

たしかに私は困らないのであった。

何のことはない。

名付けた呼び名の来歴はそのまま私の思想そのものでもあるから、それを人前に晒して私事なる想いをいちいち見せびらかしている。

お調子者だと噂されることが、恐ろしいだけの話である。

 

名を得て道に迷わぬように、というのが親心であるならば、その名付けの工程について披露を惜しむ理由がどこにあろうか。

それでようやく、慣れぬことをしてみようという決心がついた。 

作品名:「ときどき、透明になる家」

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昨日10月8日にアート・イベント「ときどき、透明になる家を作ろう!」を開催し、ぶじに「ときどき、透明になる家」が完成しました。

完成した作品は展示作品として、下記の場所にてご覧いただくことができます。

 

「ときどき、透明になる家」展示地

茨城県つくばみらい市南2135 フロンティアファーム敷地内

 

ときどき透明になる様子をご覧になりたい方は、どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。

 

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「ときどき、透明になる家」制作時の様子。

シェア・アトリエ「miraiva」

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夏が終わる頃、踊りながら描きたいと思った。

 

ダンスと絵を描くことはあまりにも似ているから、わたしはそれを一緒くたにしないと気が済まなくなって、旅先の人や一度きり会った人や私を生み育てた人にまで、大きな大きなキャンバスをください踊りますから、と連呼していたら、魔法のように願いは叶い、わたしはいまアトリエと住む場所とを与えられて、太陽がのぼって沈むまでずっと油と顔料と音楽とを混ぜて、服を捨て、はだしで踊りながら暮らしている。

 

滞在先は、「miraiva」というシェア・アトリエだ。

「表現」といういかようにも伸びて幾分融通の効きすぎる枠で括れるものを広く受け入れる、行き場ないアーティストのための場所。

 

ときどき、私の見知らぬ世界の音楽をたずさえた人が、無垢な眼差しで人を石に変える人が、リアス式海岸のようにいくつもの波を抱え込んだ人が、夜更けにやってきて、私の中を流れる透明な河に、色を、ひかりを、無尽蔵に注ぎ入れる。

 

泡立つ河の流れは、こみあげるように氾濫し氾濫し、あふれだすもので今日も私は色を塗っている。

あなたにも来てほしい。わたしという河にあなたの持つ色を、光を。

世界が滅びてもいいなんて嘘つき。

f:id:niga2i2ka:20170930184004j:plain 世界なんて滅びてもよいの。 あなたとわたし、ふたりきり残して。 さっさと滅びてしまえ。 余白だらけになってしまえ。 完璧も片手落ちも曖昧も不透明も、 意味たちはすべて光になってしまうのが正しい。 風のように賢いあの人は。 風のように去ってしまうあの人は。 こんな祈りをきらうかしら。 こんなわたしを。 世界が滅びてもよいなんて、 そんな言葉は嘘です。 あなただけが欲しいように、 願うわたしは嘘です。 わたしたちは結ばれたのに、 その結ばれ方が気に入らない。 わたしたちはほぐされたのに、 そのほぐし方が気に入らない。 ただそれだけのこと。 前髪の波立ち方に苛つくみたいに。 わたしはいま少し、 ご機嫌じゃいられないだけ。

10月8日、イベント詳細です。

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先日お知らせしました「ときどき、透明になる家を作ろう!」のイベント申込ページができました。

イベントの詳細情報も載せておりますので、お時間ございましたらご覧下さいね。

 

2月5日による、参加型アート・イベント

「ときどき、透明になる家を作ろう!」

http://peatix.com/event/306169

 

今回、久々にインスタレーション作品を作れる機会に恵まれた事に対する嬉しい気持ちと「どんな風に着地するのかな」という予想のつかなさ、でこの数日は胸がヒタヒタしております。

 

インスタレーションの醍醐味は、作品に触れた人が自分の頭の中の余白を発見する、そのきっかけ自体に参加者自身がなる、あるいは自ら組み立てる、という点だと思っているので、このイベントも告知文を読むところから作品がスタートするようにデザインしていこうと思っています。

(参加型ながら、完成した「ときどき、透明になる家」も恒常的な作品として機能させたいと思っています)

泡立つコミュニケーション、限界が好き。

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限りあるもの。

それは、面白く、切なくて、愛おしい。

 

終わりや範囲が決まっていることで、その内側の内容物はそこからはみ出さんと煮え立ち、ひとりでに踊り、極まっていく。

「ここまで」と定める限界線の周りには、湖の岸辺にたえず水が打ち寄せるがごとく、言葉が泡立ち、想いが砕けて、いつもいつもとても賑やかだ。

 

限界の線引きがなされているもの。

たとえば命。

たとえば、心。

それから、この肉体も。

 

命の範囲をここまで、と定める境界線を私たちは「死」と呼ぶ。

そして、その境界線である「死」の周辺には、それを語る多くの言葉が生まれる。

やがて尽きる命のはしっこを想いながら、命の内側について私たちは心を動かし、とめどなくお喋りを続ける。

まだ見ぬ世界の終わりを想いながら、そこまでの距離を楽しいお喋りで埋め立てようと夜を更かして、長電話を繰り返す。

 

人の心の限界は、他人と出会った時に生じる。

間仕切りのない弁当箱のように、心の中の内容物が他人の心へと自動的に流れ込んだなら、もはや言葉も眼差しもあらゆるコミュニケーションはお払い箱になるだろう。

 

けれど、私たちの心は、それぞれが別々のお弁当箱。

蓋つきの、中の見えない、お弁当箱。

中身を教え合いたいのに上手くいかず、四苦八苦している。

小さなお弁当箱を抱えながら、その限界がもどかしくて、今日もコミュニケーションは泡立っている。

 

肉体はわかりやすい限界だ。

皮膚、という境界線が私たちの範囲をそれと分かるように視覚化している。どこからどこまでが私なのか。それを計りやすい。

私たちの肉体は、ほかの肉体に成りかわる事はできない。 肉体は、乗り物であり、牢獄であり、呪いのようにどうしようもなく私たち自身だ。

そのせいなのだろうか。肉体は、ときどき、別の肉体と溶け合う瞬間を求める。

間仕切りをなくして、誰かの肉体とつながり、つかの間自分の輪郭線が見えなくなってしまうような、そういう瞬間を。

けれど、溶け合う時間を過ごすほどに、他人と自分とを分かつ境界線はありありとそそり立つ。

どんなにか泡立っても、水泡は破れて、もとの沈黙へと沈んでいく。

溶けたバターのように、誰かと合わさってしまいたい。

そんな事を考えて、けれど夏も終わるから、私はひとり言葉をかき混ぜ、また泡立たせている。