ジュンパ・ラヒリさんというインド系アメリカ人作家の短編集『停電の夜に』を、この2カ月くらいをかけて、とぎれとぎれに読んでいる。
内容は決してつまらなくはないのだけれど、一気に飲み干すような読み方ができない類の作品で、ひとつの話を読んでは何日か休み、途中でほかの本もはさんで、ちょっと映画でも観て、とそんなことをしているうちに、すべての作品を読むまでにかなりの期間を要していて、まだあと2本、未読の作品を残している。
私はよほど合わない作家の本を無理に読むのでもない限り、読書にそういう時間のかけ方はしない方なので、「ふしぎだなぁ、時間かかるなぁ」とこの本を読みながら首をひねっていた。
さいきん人と話していて、ふと思い出して自分のおすすめ本として『停電の夜に』を挙げたときに、その面白さを言葉にするのが妙にむずかしくて、そのうまく言えないもどかしさが再び「この本ってふしぎだなぁ」という感覚を呼び起こして、いまこうやって文章にして考えている。
どうしてこの小説は、読みすすむのにこんなに時間がかかるのだろう。
ほかの人はどうか知らないのだけれど、少なくとも私はとても時間がかかる。ひとつの作品を読んだら、しばらく次の作品を読む気が起こらない。
そしてその理由は、ラヒリさんの小説の「言いたいことのなさ」に由来するものなのだろうと、何となくそんな気がしている。
彼女の小説を読んでいると、誰かの記憶を撮影したスナップ写真を見せられているような、そんな気分になる。
『停電の夜に』の作品はどれも、悲しみにくれることができない種類の悲しさだとか、不幸だと嘆くにはあまりにありふれている出来事の苦さを描き、極めてドライに人生の片鱗を描写している。
そして、そのフレームの中に作者自身はいない。外側からレンズを覗き、淡々とシャッターを押し続ける。その一連のしぐさこそが、彼女の作品の独特の手触りを作り出している。
そして、それらの手触りは限りなく読者である自分自身が生きている人生の手触りにちかく、似すぎていて、小説によって別世界を体験しているというよりは、「今いる自分の居場所からどんなに隔たっても、たとえ違う人間になったとしても、今の自分が味わうのとそう変わらない、同じ種類の人生しかないのだ」という夢のない事実を告げられているようでもある。
もちろん作者は、作品の中にそういうダイレクトな言葉を用いているわけではない。
けれども、人の人生に否応なく紛れ込んでしまう「かたづけようのないもの」「できればそっと見て見ぬふりをしてしまいたいもの」を淡々と描き、そこにそれがあるのだと示す。そういうこと自体が、もう十分なメッセージとして機能している。
そしてその語り口は一見するとマイルドで優しい調度品のようだが、手で触れてみたときに、それが思いがけずひやりとした素材でできていることに愕然とする。
だからジュンパ・ラヒリさんの小説のページをぱらぱらとめくってみると、そこに待っているものは単純な読書というほど生やさしいものではない。
そこにあるのは、自分自身の人生の追体験であり、あるいはまだ味わっていない不幸や侘しさの予告編である。
だから私は、そんなものを次々と読み進められはしなかったのだ。
そして、時間をかけてゆっくり咀嚼しなければ「もたない」という思いにも自然となるのだろう。
ジュンパ・ラヒリさんの描いているのは、作者の人生でもなければ、架空の誰かの人生でもない。読者である私の人生、それそのものなのだから。
それを他人事として読んで楽しみたい気持ちと、読みながら、読み終わった後の苦々しい実感と。
その行ったり来たりを許される場所を作り出す上手さが、彼女の小説の魅力なのだと思う。
そして彼女の作品をたまらない気持ちで読み進んでいるとき。
部分麻酔の手術を受けているみたいだ。
ふと、私はそんなことを思ったりもする。