ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

僕らが旅に出る理由、太宰治の青森。その2

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 大英帝国を差し置いて、どうして青森だったのか。

 

青森に興味を持ったきっかけは2つあった。

1つ目は津軽半島にある金木(かねぎ)という土地だ。

ここは作家・太宰治の生まれ故郷で、今でも生家の建物が残っている。 

 

一応、前置きしておくと私は太宰治の大ファンというわけではない。

思春期を太宰に救われた記憶もないし、桜桃忌が近づいてきても特に気にしない。

太宰治の良さがしみじみと染みてきたのは、20代の終わりごろにぽつぽつ本を読み出してからだと思う)

 

好きな太宰作品は沢山あるし、魅力ある作家だとは思う。

けれど、

「とにかく太宰が好きで好きでたまらくて心酔してます、ほんと生まれきてすみません!」

みたいな、そういう「どっぷり感」は一切ない。

 

それならどうして太宰治の生家を訪ねて、私は青森まで行くのだろう。

自分でもなぜ、と思って考えてみる。

すると、

フィクションとしての「太宰治」。

生身の生活人としての「太宰治」。

その2つの太宰を反復することで浮かび上がる何かを見たい。

そんな思いがあることに気づく。

 

作品を読んだことがなくても、「太宰治」の名前を知らない人はあまりいないだろう。

人間失格」といった作品名から連想される、シリアスで取っつきにくい雰囲気。

その雰囲気だけで十分に「文学」の記号として機能しうるのが太宰治という作家だと思う。

 

太宰治」の記号性や文学というジャンルにおけるポップ・アイコン的な祭られ方が私には面白く、そして作品・「太宰治」が今現在どのように鑑賞され、そしてその存在が更新され続けているのか。

私はその「現場」に立会いたい。

そんなことを思っているようだ。

 

(一昨年、東京三鷹にある『太宰治文学サロン』を取材した時に、そこにいるボランティア・スタッフの方がまるでリアルタイムで生きている近所の有名人を噂するような身近さで太宰エピソードを話す様子がとても面白く、「太宰治を語る人たち」ともっと話してみたい、と思うきっかけになった)


太宰は作品を通じて作られた彼の「虚像」で人気を博し、その「実像」で愛される作家なのだと思う。

虚像の出来栄えが見事であればある程、その舞台裏の素顔に触れた時の意外性や「発見した感」というのは大きく、読者はその落差も含めて、なお一層彼に魅了される。

そういう仕組みを目の当たりにする時、心の中は面白く、また不思議な味わいがある。

 

芸術が時の洗礼を経てエンタメ性を獲得していく。

それはやはり太宰治その人だからこそ可能な、バージョンアップの形だったのだろうとつくづく思う。

 

実際に訪れた青森県五所川原市・金木町で、私は太宰治の生家『斜陽館』と第二次大戦中に太宰が疎開していた時に使っていた離れ『疎開の家』を訪れた。

 

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『斜陽館』はどちらかというと観光色が強く、明治期の木造建築の佇まいを味わうといった向きであったが、その斜陽館から少し離れた場所にある『疎開の家』。

ここは今なお太宰治の気配がそこかしこに息づく、まるでパワースポットのような厳かな力を感じる場所であった。

 

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実際に疎開中に太宰が執筆していたという書斎の一室の座布団に座らせてもらい、『疎開の家』の管理人さんと言葉を交わす。

 

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太宰が家業や肉親に抱いていた思い。

作品に滲む彼の優しさと葛藤。

新潮文庫の太宰の短編集を片手に、管理人の方は「フィクション『太宰治』の一人歩きが裏目に出て、本人の人柄が日の目を見ない場面に居合わせると悲しい」のだと、太宰愛を煙のようにくゆらせる。

丁寧な所作でめくられる文庫本のページには、たくさんの付箋が挟まっている。

 

私が、音色の異なる楽器を使い分けるように、作品ごとにふさわしい筆使いのできる作家であったという意味で、太宰を「器用な人だと思います」と所感を述べると、その「器用」という言葉に反射的に出たのであろう、「けれど彼の人間は不器用ですからね」とすかさず擁護の言葉がかぶさってくる。

 

前のめりだ。

この人は前のめりに、太宰の「実像」を愛しているのだ。

ここにも太宰治の虚と実を行き交う、激しい往来がある。

ふつ、と喜びに似た感情が胸に込み上げる。

ここに来てよかったと思いながら、私は再び津軽鉄道に乗り込み、彼の人の故郷を後にした。 

 

太宰治記念館「斜陽館」 - 太宰ミュージアム

 

僕らが旅に出る理由、行く先は青森。その1

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「どこか遠くに行ってくればいいのに。イギリスとか。」

居候先で家主にそう言われたのは、たしか6月ごろのことだった。

 

当時の私はこの2年ばかり不慣れな賃金労働を続けた無理がたたって気力・体力ともに衰弱を極めており、ほうほうの体で会社を辞めて独立。

フリーランサー専門のコーチングを受けながらも、とりあえずは人並みの健康を取り戻すのが先決という結論にいたり、都内を離れて田舎で療養&居候ライフをスタートしたばかり。

つまりは海外へ出かけるようなアグレッシブさは元より、どちらかというと病人よりに命の針は触れており、なんとかその日暮らしをしながら今後のことを考えるのが精一杯という、振り返れば暗澹たる状態であった。

そんなタイミングでの海外旅行の提案である。

 

「いつまでもそんな死にそうな顔で居られても、こっちだって気が滅入る」

「はあ…(そんなこと言われても)」

「イギリスってすごく面白い国だよ(行ったことないけど)。ああいう所にいけば気が晴れると思う」

 

なぜイギリス。

この瀕死の体にユーラシア大陸横断のフライトは過酷すぎるぜよ、と無言で受け流していたが、旅費を負担するから、と家主は譲らない。

 

そもそも私は長距離移動のための乗り物が無理なのである。

10代でパニック障害を患ってからというもの、飛行機や新幹線の利用は極力避けているし、やむなく利用する際は信頼のおける人に付き添いを頼むことにしている。

 

それがゆえに、「単身イギリス旅行」。

ううううう、辛そう。

キャッキャとはしゃぐ気は毛頭起こらず、むしろ苦行に感じてしまう。

旅費の負担という提案は、とてもありがたい申し出には違いないのだけれど。

 

それからほどなくして、家主は海外ドラマ『ダウントン・アビー』なる英国貴族たちが繰り広げるお家騒動的な話にハマっていて、その舞台がイギリスだという事が明らかになった。

なんたる安直。

であれば私の旅先も、家主のマイブームによって限定される必要はまったくないのでは。

 

「イギリスは、ちょっと今は気が進みません」

「じゃあ、いつになったら元気になるの?」

「時期は、自分でもわかりません」

「イギリス以外で行きたい所ないの?」

「青森なら」

「え?」

「青森なら行きたいです」

「え〜(不満げ)。あおもりぃ?ふーん。。。地味だね」

 

イギリスから青森の落差は大きかったようで、話はそこで終わるかに見えた。

が、結局私はひとり青森に行くことになった。

家主は死にそうな無職(またの名をフリーランス!)の中年女がうろうろ家の中を徘徊するのが、よほど嫌だったと見える。

3泊4日分の旅費をぽんと手渡された。

そんなわけで、私はひとり青森へ旅出つことになったのである。

 

 (つづく)

夏籠人間模様、解読絵巻

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悩ましきことのつくづく。

ジパング
四季の国がゆえに
葉月ともなると都市は
砂と石と油の床にずぶと埋まりて
どこもかしこも地獄に似た灼熱が常なり。

殊更に
人の集うところ
人肌くるみたるその温もりども
密に集うがゆえに風神様も力及ばず
微風そよがすに留まりはべりぬ。

目覚めては
山の手電車でついと走れど
内側の気色はさながら蒸した湯屋のごとく
額に汗したる人どもの見苦しき様よ。

湯屋ならば
水を打ち冷ますこともできようが、
人々ひしめき合いたる籠の中では
それも叶わず。

ただ目当ての駅に想いを募らし
気を紛らわせけれど
やがて、
それにも飽き飽きて
籠の内の人々眺め
心平らに過ぐす術を見つけることにす。

額に汗したる男

執刀中の外科医と思うべし。
人命をその手で動かしたる最中。
額を汗でしとどに濡らすも不思議ならず。
持ちたる手拭でそっと雫を押さえてやるもよし。
同じ籠に乗り合わせたるは幸運なり。

座席で化粧に耽る娘

肺呼吸できぬ民。
白粉に見えし粉は酸素の粉なり。
粉末酸素を顔面の皮膚に塗りて
呼吸をす。
紅差すも同じ理なり。
酸素の粉顔から剥がれかかりたる折
生命危うし。
指摘すべし。

眉間に皺寄せたる人

これより土下座に向かう人なり。
地に頭擦り付け許し請う事情あり。
心重く、気持ち晴れぬこと泥の如し。
同情すべし。

にわかに怒り出す人

お殿様なり。
下々の日々の暮らし見物にまいりたまふ。
されど、
その余りの苛酷に身をやつすこと耐え切れず
お忍びの御身もお忘れになりて
籠の中、暑さの渦中に御乱心。
江戸城への乗り換え電車教えるべし。

言葉曖昧聞き取れぬ車掌の声

まだ赤子なり。
言葉よく知らず
舌も思うようには回らぬが
声だけは大人びて野太し。
家計のため里子に出されるも
ろくに食事にもありつけず栄養不良。
不憫極まりなし。


くどくどと身の上話する人、多くは五月蝿し。
よき人の口に出して己が身の上物語る人
極めて稀なり。
されど、
物言わぬ物
物言わぬ人こそ
よく心の眼を凝らせば雄弁に口上す。
その言葉聞くべし。

 

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』 彼女はシャッターを切る。

 

ジュンパ・ラヒリさんというインド系アメリカ人作家の短編集『停電の夜に』を、この2カ月くらいをかけて、とぎれとぎれに読んでいる。


内容は決してつまらなくはないのだけれど、一気に飲み干すような読み方ができない類の作品で、ひとつの話を読んでは何日か休み、途中でほかの本もはさんで、ちょっと映画でも観て、とそんなことをしているうちに、すべての作品を読むまでにかなりの期間を要していて、まだあと2本、未読の作品を残している。

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私はよほど合わない作家の本を無理に読むのでもない限り、読書にそういう時間のかけ方はしない方なので、「ふしぎだなぁ、時間かかるなぁ」とこの本を読みながら首をひねっていた。

さいきん人と話していて、ふと思い出して自分のおすすめ本として『停電の夜に』を挙げたときに、その面白さを言葉にするのが妙にむずかしくて、そのうまく言えないもどかしさが再び「この本ってふしぎだなぁ」という感覚を呼び起こして、いまこうやって文章にして考えている。

 

どうしてこの小説は、読みすすむのにこんなに時間がかかるのだろう。


ほかの人はどうか知らないのだけれど、少なくとも私はとても時間がかかる。ひとつの作品を読んだら、しばらく次の作品を読む気が起こらない。
そしてその理由は、ラヒリさんの小説の「言いたいことのなさ」に由来するものなのだろうと、何となくそんな気がしている。

彼女の小説を読んでいると、誰かの記憶を撮影したスナップ写真を見せられているような、そんな気分になる。
『停電の夜に』の作品はどれも、悲しみにくれることができない種類の悲しさだとか、不幸だと嘆くにはあまりにありふれている出来事の苦さを描き、極めてドライに人生の片鱗を描写している。
そして、そのフレームの中に作者自身はいない。外側からレンズを覗き、淡々とシャッターを押し続ける。その一連のしぐさこそが、彼女の作品の独特の手触りを作り出している。

そして、それらの手触りは限りなく読者である自分自身が生きている人生の手触りにちかく、似すぎていて、小説によって別世界を体験しているというよりは、「今いる自分の居場所からどんなに隔たっても、たとえ違う人間になったとしても、今の自分が味わうのとそう変わらない、同じ種類の人生しかないのだ」という夢のない事実を告げられているようでもある。

 

もちろん作者は、作品の中にそういうダイレクトな言葉を用いているわけではない。
けれども、人の人生に否応なく紛れ込んでしまう「かたづけようのないもの」「できればそっと見て見ぬふりをしてしまいたいもの」を淡々と描き、そこにそれがあるのだと示す。そういうこと自体が、もう十分なメッセージとして機能している。
そしてその語り口は一見するとマイルドで優しい調度品のようだが、手で触れてみたときに、それが思いがけずひやりとした素材でできていることに愕然とする。

だからジュンパ・ラヒリさんの小説のページをぱらぱらとめくってみると、そこに待っているものは単純な読書というほど生やさしいものではない。
そこにあるのは、自分自身の人生の追体験であり、あるいはまだ味わっていない不幸や侘しさの予告編である。

だから私は、そんなものを次々と読み進められはしなかったのだ。
そして、時間をかけてゆっくり咀嚼しなければ「もたない」という思いにも自然となるのだろう。
ジュンパ・ラヒリさんの描いているのは、作者の人生でもなければ、架空の誰かの人生でもない。読者である私の人生、それそのものなのだから。
それを他人事として読んで楽しみたい気持ちと、読みながら、読み終わった後の苦々しい実感と。
その行ったり来たりを許される場所を作り出す上手さが、彼女の小説の魅力なのだと思う。


そして彼女の作品をたまらない気持ちで読み進んでいるとき。
部分麻酔の手術を受けているみたいだ。
ふと、私はそんなことを思ったりもする。

20年間のドライブ、私たちの廃墟へ。

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週末を利用して、弟と夫と三人で茨城へとドライブをした。

かつて父だった人とその新しい家族、そして私たち姉弟の祖母が暮らす田舎の家を訪ねるためだ。


父と会うのは数年ぶりのことで、4年前に夫となった相手を引き合わせることに私はあまり気乗りがしなかったが、今回は祖母の顔を見たい気持ちの方がまさって、こういうことになった。来年にはもう90歳になるという祖母の齢を考えると、このまま会えないでお別れがきてしまうのでは、という焦りもあった。少し前にカメラを失くしていたので、私は仕事帰りに量販店を回り、新しい型のカメラを用意した。

その土曜日はよく晴れていた。
開通したばかりだという栃木と茨城とを東西につなぐ高速道路から車が一般道に入ると、同じ北関東に分類される土地にしては、その空気がどこか違って見えた。どちらも同じくらい田舎で、似たような種類の閑散とした景色。それなのに不思議だ。車の窓ガラスに額を押し付けもたれながら、なぜだろうかと考える。
理由はすぐにわかった。私たちを乗せた車はもうずいぶんと海に近い場所を走っていたのだ。


私が育った栃木県には海がない。潮風の運ぶ、あの海の香りがまるでない。群生する木々の面立ちも波打ち際とではかなり違っている。そういうことか。助手席に座ったまま視線を上げると、日立港まで何メートル、という道路標識が見えた。

それからしばらく走ると、前方に見覚えのある昭和シェルのガソリンスタンドが見えて、隣に色褪せたボウリング場の建物が並んでいるのが目に入る。巨大なボウリングのピンが二階建ての建物よりも高くそびえていて、いやでも目を引く。しかし、そのふたつの建物の壁面はかさぶたのように大部分が剥がれ落ちていて、それがもう使われていない牧歌的な廃墟であることを知らせている。


ねえ、あたしこの昭和シェル知ってる。このボウリング場知ってる。この道よく通ったもん。
運転席の弟にでも後部座席の夫にでもなく、私はひとり興奮気味に声を上げる。海で遊んだ帰りに、よく父の車で通っていた懐かしい景色。その面影がまだはっきりと残っていた。

やがて、祖母の家に向かう曲がりくねった道に入る。近くまで散歩に来ても、子どもだった私たちは怖くて絶対に足を踏み入れなかった崖みたいに急な下り坂。その坂を左に見てカーブを右へ曲がる。もうすぐばあちゃんの家が見えてくるんだ。幼い頃に記憶していた順路が、微細な変化を遂げた姿で次々に現れる。私は現実の景色に記憶の中の映像を重ね、その過不足のない完成フィルムを上映しながら、窓の外に向かって何度も何度もカメラのシャッターを切る。移動する車窓からは、流れるように乱れた写真しか撮れないと分かりながら。
舗装されたアスファルトの道に蓋をするように繁っている大量の樹木。
うわ、ここぜんぜん変わってない、と弟が驚く。


見覚えのある、思い出として何度も眺め回した丘の上に祖母の家が見えて、かつては父が運転する赤い車でがったんごっとん揺れながら這い上がった急な砂利道を、いまは髭をはやした弟のハンドルさばきで私たちは、奥へ奥へ斜面をつき進む。

もうずっと昔に私の父だった人。そして、今でも「お父さん」と、その呼び名でしか呼べない人。その人がいつものジャージ姿で出てくると、私たちは友達のように挨拶を交わす。よう、どうだ元気だったか。まあね。そっちも元気そうじゃん。あ、この人、これ、あたしの旦那。やあ、どうも。はじめまして。昼飯にしよう。腹が減ったよ。
挨拶をすませ、祖母の家の三和土にブーツを脱いで、お邪魔しますと口にする。静かだ。ばあちゃん、と呼びながら家に上がる。茶の間に祖母が座っている。ばあちゃんだ。あの頃よりもずっと年をとっている。私はその姿を見れただけで、もう十分だと思う。

父の新しい家族はそれぞれの所用で不在であった。
もしくはそういう日があえて選ばれたのかもしれなかったが。


私も弟もそして夫も、それを知ってずいぶんと気が楽になった。もしそれが父の意図的なはからいであったのならば、私たちにとってそれ以上気の利いた「おもてなし」はなかった。こいつらは誰なのだと不審そうに見られることも、気まずい挨拶を交わし遠慮することもない。今日の私は、娘であり、孫であり、姉であり、妻である。人物相関図のどこを探しても、私を疎ましく憎む人間は決して見つからない。私の連れ合いである夫にとっても弟にとっても、それは同じことだった。
20年分古くなり、小さくなった祖母は、懐かしく耳になじんだ茨城なまりのあの声で私の名を呼び、花嫁装束を身につけている数年前の婚礼の写真に目を細める。娘とその結婚相手の男に向かって、どうもおめでとうございます、と父が言う。

出前のチゲ鍋うどんが届いて午餐となり、引き続き父の司会によって各自が近況報告をすませ、私たちは敷地の中にある先祖の墓参りに出かける。子どもの頃は山ひとつ越えなければたどり着かなかったはずの墓場があまりにも至近距離にあり、記憶との落差に姉弟そろって愕然とする。
あれが柿の木で、栗の木で、あのへんに生える筍はけっこう美味いんだ。
父が庭を案内する。もう葉の落ちた木々の中に、晩秋の色彩が日没を受けて輝いている。父と弟と、私の夫と。三人の男たちが秋から冬への渡り廊下をぶらつきながら、何でもない話をして、それぞれの人生を出逢わせている。

もっと気まずくて、もっとぎこちなくて、すぐにでも帰りたくなるような、そんな雰囲気を思い描いてやって来たのに、やはりそこは何度となく夏休みを過ごした私の「ばあちゃんち」で、いまは父の新しい家族のために多少の建て増しはなされているものの、じいちゃんの部屋に貼ってあった「宇宙戦艦ヤマト」のポスターも、たくさんのトロフィーやカップがしまわれたガラスの戸棚も、収穫した野菜が籠に入っている薄暗いお勝手も、フルマラソンを走る父のゼッケン姿の写真を大きく引き伸ばした額縁の並びも、全部が私の思い出の中にかつてあり、そして今もこの場所で続いていて、私のことを覚えてくれていたように、何も変わっていなかった。ばあちゃんは私のばあちゃんで、その事実は何も、何一つ、変わっていなかった。ばあちゃんは皺が増え、小さくなり、もはやその手料理を食べることはできなかったけれど、それでも笑い話をしようとしてこらえきれずに笑い、誰にでも蜜柑を勧め、こたつには入らず、染めなくてもいつまでも黒い髪を隠すように手ぬぐいをかぶっている。私にとって唯一のおばあちゃん。

私が少女をやめてから、もう何年がたつのだろう。
所帯を持ち、賃金労働で日銭を稼ぎ、高齢の祖母の死をまもなく起こる悲しい未来として恐れる程度のあたりまえの分別を身につけてはいるけれど、それでも華奢な置物みたいになったばあちゃんが冗談を言えば遠慮なくそれを笑い、聞きたいことを尋ね、何のわだかまりもなく、隣で蜜柑の皮をむいて、ゴミ箱にその皮を投げている。何も変わっていなかった。私が怯えていた巨大な変化など、そこには何一つ見つからなかった。
勝手にあると信じ込んでいた透明なしがらみと臆病風によって、私はここへやって来るのに、20年あまりも費やしてしまった。
けれど、その20年という時間が長かったのか短かったのかは、私にもよく分からない。

帰り道、高速に入る前に私たちは寄り道をした。
とある場所を目指して。
弟の銀色の車が海沿いの道を走る。窓を開けると冷たい風があっという間に皮膚を冷やす。すぐそばに引き締まった冬の海が、鉄色の薄い波をつくってところどころで持ち上げているのが見える。瀕死の生き物のように波は低く、海自体は決して動かずにいる。
東京からたった3時間足らずのこの場所までに、20年分のどんな障壁があったというのだろう。果たされてみればあまりにも簡単で、つまらないことのようにも思えてくる。


見えたよ、と運転席から弟の声が言う。
白い灯台と、そのふもとに広がる芝生の公園。
寒さのせいなのか人影はなく、風に煽られたブランコだけがさびしく揺れている。
かつてそこには真っ赤なタコを模したすべり台やいろいろな遊具がたくさんあった。夏休みに祖母の家を訪れるたびに、私たちは父に連れられて、この公園でよく遊んだ。勝手に「タコの公園」と名前をつけて親しんでいた。
何年か前、海が見たいと言う恋人を連れてドライブに来た弟は、偶然にもそこがかつて遊んだその場所だということを発見したという。
いま大部分の遊具は撤去されて、公園の主である赤いタコのすべり台は塗装がはげてファンシーな桃色へと変化してはいたが、間違いなくそこは、私たちの思い出の「タコの公園」だった。
防砂林のすぐ向こうに見える冬の海。
子ども用にしてはあまりに急なすべり台の斜面を登ってタコの頭の部分に立つと、私は眼下に海を見下ろしてみる。
クールベの描いた「秋の海」そのもののような、黒々と横たわる液状の大地。その中に、あまりにも繊細な白いしぶきが列をなして、陸地へ向かって動き、音もなく消えてゆくのが見える。
名も無き水泡の誕生と死。その儚さ。
それを見てしまったせいなのだろうか。
私の目は泣き、潮風の中に立ったまま、悲しみとも違う何かが幾度も幾度も込み上げてきては、行き場なく涙となって地面へと落下する。

人生はいつも絡み合い、こんなにも厄介な回り道をしなければ、ほどかれない忌々しい知恵の輪だ。そんなふうに私はいつも恨めしく思い、うんざりしながら生きるしかないのだと諦めていた。
けれど、このパズルは自力で解きほぐすものではなくて、いつか溶かされていくものなのだ。
車が走り出して、白い灯台がぐんぐん小さく見えなくなってしまう間、私はその姿をカメラのレンズ越しに振り返りながら、そう思っていた。
入り組んで錠のかかった人生のパズル。
自分の心の温度がそれを溶かしうる融点にまで近づいた時にはじめて、それはチョコレートのように一瞬で溶けて、柔らかな消失をとげる。わだかまった感情の棘も、悲しみに似た質量も。温かな体温の中になくなっていく。けれど、なくなったように見えて、実際はそうじゃない。私自身の一部として、これからも共に生きていくのだろう。
何かを許し、乗り越えるということは、そういうことなのだと私は初めて知った気がする。

母や私たちと別れた後に、父は南極以外の大陸で行われている世界のマラソンレースをすべて走破し、今も走ることを生き甲斐にして日々を暮らしている。家庭生活のことについてはどうやら相変わらずピントがうまく合わないらしい。そういう父もまた離れて眺めればとても面白い人間だ。父の偏った生き方を私たちは車の中で笑い飛ばし、過去をジョークに変えて、そして色々なことがもうすでに、ほろ苦い味わいとなって心に溶けていることに気がついていた。


車は闇の中をゆるやかな灯明となって走り、私は私の大切な廃墟をカメラに納め、そして私たちの暮らす現在地点へとやがて帰りついた。

 

今夜、音楽にのせてメルシーを。

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嵐のように押し寄せる出来事はたましいを運び、また作ること、書くこと、が現在進行形の時間軸とぴたと寄り添う日々が始まっています。

物言うことが怖くなり、雲がゆく速度も、風がつくる模様も、この目には映らない数年間がありました。

そのすぎた歳月の中では、肩や首がこわばり、神経はねじれて、愛する人がわたしの世界からずんずんと去っていってしまうのです。

こわい、さびしい、と胸を掻き毟って、ひとりで百年泣きました。

今は少しずつ、もう大丈夫。

音楽をかけて、今夜は陽気に踊ります。

あなたへのメルシーを、ステップに刻みながら。

今日も読んでくれてありがとう。