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村上春樹×市川準『トニー滝谷』例えば漫画のコマ割りをどうやって映像化するのか。

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けっこう映画化されている村上春樹

 

村上春樹の小説は、短編・長編ともに何作か映像化されている。

私も全部を観たことはない。

映画館で観れたのは、『ノルウェイの森』と『トニー滝谷』だけだ。

 

それでもネットで調べてみると、1981年にはデビュー作『風の歌を聴け』が早くも映画化。2008年にはアメリカで『神の子どもたちはみな踊る』を原作とする映画が公開されている。

 
「結構ハルキは映画になっているんだな」と意外に感じる。


というのも、私の中で村上春樹の作品の魅力はあの文体によるところが大きいので、文章から離れたところで村上春樹を楽しむという発想がないし、そもそもそういう成功例をイメージしにくかった。

 小説や漫画の二次元作品を映像化して大成功!という例もあるにはあるけれど。

そしてそういう大成功にはブラボー!最高!と大興奮するのだけれど。

 

正直なところ文学作品を映像化したもので個人的にオッケーなのは、ものすごくマイナーな原作で「あ、あの映画って原作あるの」みたいな作品か、原作はあくまで下敷きくらいの感じに使って、あとは監督が肉付けをガンガンやったり、ごっそりエッセンスを捨てたりして、もはや原作とは別物、みたいなパターン。

そして『トニー滝谷』という作品は、私にとってそのどちらでもない。

だからこそ、とても特別なのだ。 

 

映像化の難しさ

 

それにつけても映像化の難しさよ。と思う。

制作会社の人間でもないのに、頭を悩ませる必要はないのだけれど。

だけど、いちユーザーとして、これだけ沢山の実写化された映像作品を目にしていたら素人でも思ってしまうよね。

「あ〜どんなに面白い原作があっても、必ず面白い映画(ドラマ)ができる訳じゃないのね」

みたいな事を。


映像化のむずかしさって、どういうところにあるのか。

映像素人ながら考えてみると、それは二次元作品と四次元作品、それぞれを成り立たせている文法の違いをどう乗り越えるか、という事に集約されるように思う。

たとえば漫画だったら「コマ割り」というのがある。

その「コマ割り」が読み手にとっての緩急であり、その作品のリズムを作り出す大きな要素だ。

映像化の難しさというのは、じゃあその「コマ割り」という漫画独特のフォーマットを映像に置き換えるとしたらどうするの、みたいなところで発生する問題なのだと思う。

そこを雑に扱うと原作の魅力は圧倒的に損なわれるし、そもそも映像にしなければ良かったじゃん、みたいな結果になってとてもアンハッピーだ。


そんな中、市川準監督による映画『トニー滝谷』は、小説と映画という2つのフォーマットの違いを意識的に演出として際立たせて成功している。

 

村上春樹の文章を市川準が書き直す。


映画の原作は『トニー滝谷』という短編小説。
日本では『レキシントンの幽霊』という短編集の中の一編として出版された。

淡くさみしい余韻を残す、美しい作品だ。
とてもざっくりだが、簡単にあらすじを紹介する。

 

幼い頃から孤独と親しんで生きて来た主人公・トニー滝谷
そんな彼がある日恋に落ち、束の間の結婚生活を手に入れ、長年の相棒だった孤独を手放す。
そして突然の妻の死とともに再び孤独と再会する。
しかし再会した孤独は、妻と出会う以前のそれとは面持ちが微妙に変わっている。

…とこんなお話。

 

このあらすじを元にオーソドックスな手法で撮ることもできただろう。
しかし、市川監督はあえて村上作品の文法や、村上春樹の語り口までをも自分の映像でリライトしようと試みている。

 

例えば登場人物を演じている役者が、自分のセリフのあとに台本にある「ト書き」を口走ったりする。

主人公の妻を演じる宮沢りえが登場人物として夫と会話しながら、

「…と彼女は言った」

と映画の外側からしか語り得ない視点でその状況を説明する。


そのシーンがあるだけで、『トニー滝谷』という物語の内側と外側が一瞬にして地続きになる。登場人物はその役でもなく、役を演じる役者でもなく、誰でもない誰かになる。それを観ている側に静かな混乱がもたらされる。

 

ナレーションでもないのに、映画の登場人物が突然作者の視点で語り始める、というのはかなり奇妙な状況だ。
しかし、映画『トニー滝谷』においては、そういったシーンの挿入が不思議と心地よい。

 

この心地良さは、どこから来るものなのだろう。

何度か『トニー滝谷』を見なおしながら、考えた。

そうして思いあたるのは、この映画が村上春樹の小説を映像化する、というその変換の難しさに対して非常に注意深く作られている、ということ。

つまり、市川監督が小説の文法を映画の文法に置き換えた時に「これは置き換えきれない」と判断した部分をあえてそれと分かる形で映画の中に残す演出をしている。(つまり置き換えきれない部分の把握が、結果的に置き換えを可能にしている)

 

文章でしか表現し得ないディテールやニュアンス。

それを市川監督はあえて映画の文法を崩して表現する、あるいは演劇的な手法を持ち込んで橋渡し役をさせる。
そこに原作に対する敬意、作り手としての誠実さとともに、映像におけるチャレンジングな気概を感じる。


さりげなく細やかな配慮や、それを「どうだどうだ」と誇示することなく、さらりとフィルムにまとめ上げる余裕。

それらを洗練、と呼ぶのだろう。

その洗練されたシャープなアウトプットが、観ている側にとってはストレスレスで、爽やかで、心地よい風だ。

 

主人公であるイッセー尾形宮沢りえのほか、ナレーションで参加している西島秀俊の声も『トニー滝谷』の世界に過不足ない輪郭を与え、かつ溶け込んでいる。

坂本龍一のピアノの音は、雨音のように静かに悲しく画面に降り続ける。
小説を読んだ人も、読んでいない人にも知って欲しい、もうひとつの村上春樹ワールドです。