先日の読書会にて、川上弘美さんの小説『真鶴』を取り上げた。
メジャーな芥川賞受賞作『蛇を踏む』だとか、映画化された『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの冒険』ではなく、あえて渋く、『真鶴』。
気づいたら知らない場所に立たされている。
そこがいったい何処なのか、たしかめる事もできない。
『真鶴』はそんな小説。
何となく「今、これだな」と思って選んでみた。
「これほどまでに不安定な場所へと迷い込んだら、二度と出てこられないのではないか」
ページを指先でめくりながら、怯えるほどに、小説『真鶴』はおそろしい。
(ホラーとか、殺人事件とか、そういう明るい怖さじゃないので)
迷宮の真ん中に置き去りにされた読み手は、そこに入り口も出口も道案内もない事にぞっとする。
そして、その迷宮が自分のいる場所とたしかに地続きであったことに、再度震え上がる。
ちなみに読書会の参加者からも、似たような感想を聞くことができた。
あながち私だけの印象ではないのだな、と思った。
以下、『真鶴』読書会で出た話、個人的な感想もろもろ。
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「大事」と「必要」は違う
真鶴には、こんなフレーズが、さらりと書かれていたりする。
自分が産み落とした娘は「大事」だけれど、産後しばらく遠ざけていた夫のからだがまた「必要」になってきて、だけど決して夫のからだが「大事」になることはないのだ、というような、自分と他者との関係性についてのドライな描写が散りばめられている。
また、一人称を省いた特徴的な文体は、だれが、いつ、どこで、という情報を隠したまま、そこで何かが為され、景色が動き、押し流されるように場面が変わるさまだけを読者に見せていく。
そのせいで、「誰が」「いつ」「どこで」という足場を失ったままの読者の意識は、『真鶴』の世界に飲み込まれ、小説自身の意識と、まるでなめらかな液体のように混ざり、溶け合って、わからなくなっていく。
いくにんかの登場人物たちは主人公の頭の中で溶け合い、輪郭はおぼろになって、それが夢なのか現実なのか、過去か未来か、その境界線も作中でははじめから取り外されて、あたかも自由に取り付けられるような恰好で、浮遊している。
主人公の母、そして失踪した夫との娘。古さの異なる三世代の女たち。
彼女たちを隔てて別個の個体として分けているものは、物理的な皮膚の間仕切りというよりはむしろ、溶け合おうとしても溶けきらぬ意識の成分の違い、たとえば、水に少しだけまじった油のような、そんなもので、そしてそれは、ひとりの人間の中にも、純度の異なるさまざまな成分が混濁し、ときと場合によって、そのいずれかが表面に浮きつ沈みつしているのかもしれない。と、『真鶴』を読み進むうちに、そんなことを「体感」することができる。
日本語の魔法が、炸裂している川上作品。
川上さんの文章の特徴として、主に動詞を中心に言葉が日常的な意味から、すこしずれた形で用いられている。
主人公がふいに欲情するさまを
「なにか思うよりまえに、うるんだ。」
というような短い一言で、「何が」も「誰が」も具体的なことをはっきりとさせないままに、それでいてこういう意味でしかない、というくらいに的はしぼられ、ことばの矢は射られている。
「うるんだ」という表現でしか表せない、欲情のしかたがあるのだ、ということを読者はそこで思いだし、あるいは知らされ、そしてそれとは違うさまざまな欲情というものに、しばし無意識に思いをはせる。
そういうやり方が、川上さんは本当にうまい。
そしてそのうまさが鼻につかないぎりぎりのところで、文体が『真鶴』の世界の部品のひとつとして、見事に機能している。
そんな風にさりげない、目に見えない、ともするとやさしいような手触りの毛布にでもくるまれながら読み進むうち、気が付けば私たちは、荒涼としたどこでもない地点へとひとりぼっちで立たされている。
それがおそらく、真鶴、という場所なのだと思う。
タイトルにもなっているこの地名は、作中唯一の実在する固有名詞。
(そして川上作品で固有名詞がタイトルになっている作品は、おそらくこの真鶴だけではないのだろうか)
物語の中に出てくるほかの場所は四国のどこか、とか曖昧にぼかされているし、人物たちの名前も、「百」だの「京」だの、どこか記号のような名づけ方で、人間くさい顔立ちをはじめから奪われているようなところがある。
つまり、真鶴という名前は、ときもところも、そして自分というものの輪郭さえおぼろな、どこでもない場所に連れ込まれた読者にとって、ただひとつの目印として与えられた、唯一たしかな座標点なのだ。
それはきっと、海上で漂流する船乗りたちが見上げる北極星に似ている。
読書会のはじまりでは、この『真鶴』というタイトルにひかれて読もうと思った、という意見も聞かれた。
けれど、読み手の興味を引くこの固有名詞が、実はどこかもわからない世界への入り口であり、そしてその世界から生還するために置かれた唯一の目印なのだということが、だんだんと分かってくると、私はまたこの「真鶴」というタイトルのつけ方がとても恐ろしくなった。
だってそれは、入口と出口が同じ一個である、迷宮の扉のようなものだから。
ことばでつくる世界の作り方にはいろいろあると思うけれど、こういうものを作ろう、と思えるほどまではっきりとしていないもの、というものがこの世界にはたくさんある。
川上さんのすごさは、そういうことば未満のものをことばで彫刻していく手腕をもっているところにあるが、それ以前に、そのことば未満のものたちをはっきりと「あるもの」としてとらえることのできる眼力。
それこそがこの人の作家としての本懐であり、おそろしさなのではないか、などという風におびえまくった『真鶴』の夜なのであった。
※本記事は、2013年開催の『真鶴』読書会のレビューを加筆修正したものです。