ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

食べられるカジノを作ることにした。

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どうにかならないのか。

椎茸の裏っ側は。

も少しタフでいてほしい。

椎茸の裏っ側よ。

やけに細かい溝みたいなのが
ルーレットの円盤そっくりに
規則正しくひしめいているんだ。
椎茸の裏っ側には。

そのくせ溝と溝とを溝たらしめている壁が
象牙色にやさしくふわふわ触ると気持ち良いもんだから
到底カジノには向かないのだ。
椎茸の裏っ側は。

林檎にしてもそうだ。

林檎と林檎を闘わせて
コロシアムみたいにしたら
なかなかいいじゃないか
「アップル・コロシアム20xx」

思い立って、
その辺をうろうろしていた林檎をつかまえて
練習試合をさせてみたのだが。


ちっとも闘わないのだ。

戦闘意欲がないのか。
林檎よ。
少しくらいのやる気は出せないか。

味噌田楽でポーカーを試みる。

シャッフルが難しい。


柚子味噌で描いた数字や絵柄が
シャッフルでぐしゃぐしゃになってしまう。


数字の判別がつかなくなると、もはやトランプとしては意味がない。
また、カードを動かす度に味噌がそこらじゅうに飛び散って見た目も美しくない。

どうしたらよいのだろうか。

もう少し、
ぐにゃぐにゃ動かないように
蒟蒻を鍛えるしかあるまい。

生きることと同じように
骨が折れる仕事である。

池澤夏樹『スティル・ライフ』世界の分解に耳を澄ます

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1冊の本が世界のすべてを変えてしまう。

正確には、それまで用いていたのは全く別の視点を提供されることによって、そこから世界の見え方がガラリと根本的に変わってしまう。

 

そういう出来事は割とよくある。

 

池澤夏樹の『スティル・ライフ』は、まさにそんな小説だ。
読む者の世界の見え方がぐるりと反転するような視点。
まったく新しい世界と自分との関係性。
そのつかみ方。
そういうものだけで構成されていると言ってもいい。
ひっくり返る世界の様子が、作品にまるごと織り込まれているのも大きな特徴だ。

 

「世界を見るときの視点の提示」を文体でやる作家もいるし、物語でやる作家もいるが、『スティル・ライフ』はそれをエピソードの形で作品の随所に散りばめている。
そしてその複数のエピソードの取りまとめ役として、佐々井という男が据えられており、佐々井は登場人物でありながら、反転する世界そのものとしての役割も果たしている。

 

スティル・ライフ』において、劇的な展開や盛り上がりの気配は、作品全体から慎重に排除されている。

そのおかげで、世界が反転しても衝撃や違和感はない。
この地上に生きる者として、知るべきことを知らされている。
そんな深い満足と心地よさがもたらされるだけだ。

 

物語を通じて描かれているのは、人間が人間になる以前の、この世界との付き合い方だ。
そこには意味や価値や「何のために」という目的はない。
星と星とをつないで星座にしたり、色の分子の結合を操作して布を思い通り染め上げることでもない。


すべてはその逆だ。

 

世界を構成している細やかな仕組みや事象に耳を澄まし、そこに含まれている自分自身の存在をただ感知すること。
巨大な機械として動く宇宙のスピードを感じながら、時折その歯車である自分に油を注すこと。

自分という世界と、その外側にある世界と。
池澤夏樹はふたつの世界を描き分けながら、それらが溶け合い1つに重なる瞬間をいくつかのシーンで描いている。

 

もっとも象徴的なのは、主人公たちがシーツに映し出された何枚もの写真を見る場面。
山や渓谷の連続的な地形のうねりを前にしながら、いつしか自分という現在地点から視点は離れ、シーツの中でゆらめいている世界そのものに意識が重なっていく。

やがて仕事を終えた男は、写真とシーツとプロジェクターを残して共同作業者である主人公のもとを去っていく。

主人公が夜にひとり、世界の姿を投影したシーツに向かって男の名前を呼びかけるシーンがとても印象深い。

自分の外側の世界と、そこに連絡する手段とが同じひとつの存在(やってきて、そして去っていった男)に集約されていくラストのその構図が、なんとも人間的でどこか寂しい後味を残す。

その寂しさというのは、山とお喋りできないだとか、川と一緒に歌えないだとか、そういう種類の寂しさ、なのだけれど。

 

お願い

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お願いがあるのだとあなたは言って、
覚えていてほしいのだと彼女に生餃子を押し渡す。

彼女はまだ仕事中で、雪の散る商店街の黒く冷たい
墓石の道にその足が埋められているのです。
彼女の23センチの右足と23・5センチの左足は。

何を?覚えているべき?わたしは?とたずねる前に
彼女は生餃子の入ったプラスチックの容器を、
平べったい昆虫みたいな形のその透明な容器を、
ぐしゃりと濡れた地面に落として、


の形に口を開いて人形みたいに固まってしまう。
血が凍る彼女の指先にはポケットティッシュ
あの素晴らしいあなたの伴侶、がビニルに包まれて
真四角く上品に抱かれている。
それはとくに彼女の大切なものではないのだけど、
ポケットティッシュは。けれど彼女は仕事として
それを配らなくてはならないのです。
見知らぬ人たちに。


だから、
彼女の仕事のすきまに生餃子を差し入れるなんて
非道はやめてあげてちょうだい。


そういうお願いをわたしがしたことを、
覚えていてほしいの。
あなたがいつも好きだという、生餃子をいまあげるから。

お願い。

 

『赤い航路』×『ラスト・タンゴ・イン・パリ』 巨匠が作る愛の模型。

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ロマン・ポランスキー監督『赤い航路』

ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラスト・タンゴ・イン・パリ

 

この2作品を日替わりで鑑賞。

性描写が多く直接的であるがゆえに、2作品とも「究極の愛とエロスを描いた問題作!」みたいな紹介をされている。

けれど、実際に蓋を開けて出てきたものは、地味でビターな人生のしくみ。

両作品に共通するのは、一組の男女が「凝縮された性の営み」を閉塞した日常からの逃避の場、あるいは刹那的に生の実感を得る手段として用いるうちに、肉体関係の停滞ばかりでなく、2人の人間としての関係性自体が摩耗した、輝きのないものへと老け込んでいく過程を描いているところ。

その過程をベルトルッチポランスキーも容赦なく、赤裸々に、シニカルに描いている。

うっとり酔える官能の世界を期待して観ると、その部分は見事に裏切られてしまう。

両作品によって味わうこの「裏切られ感」は、現実生活にも地続き。
実人生で色恋に裏切られるということは日常である。

(失速、幻滅、倦怠、不信、エトセトラエトセトラ・・・)

それとなかなかの接近度で肉薄しているという点において、両作品は個人の小さな世界を超えたスケールで見事な色恋の模型を完成し、その機能や内部構造、老朽化のサインなどをおしげもなく披露している。

恋が老いさらばえて愛に変わるのではない、ということ。
「自分の欠落した部分を、恋の相手が埋め合わせてくれる」

そんな思い込みを愛と誤解することで始まる不幸。 


個人的にはポランスキー監督の『赤い航路』において、ベルトルッチ監督の企みとテーマは洗練と完成をみたように感じた。

が、両者ともありふれた色恋の正体を暴きながら、けれどそこに一抹の美しさを添えることで、不思議な感動とともに生きることの味わいを教えてくれることに変わりはない。

追記:『赤い航路』に出演しているヒュー・グラントが男前なのに、まぬけな道化役で魅力を炸裂させている。 
単純で御しやすく、だからこそ愛に飲まれようのない、ある意味ハッピーな人間の典型をやり切っていて、心憎いキャスティング。こういう采配を見せられると好きになりますね。監督も役者のことも。

 

※本記事は2014年に別ブログに執筆したもの転載しています。

 

二胡のきもち、わかるわたし。

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今年の冬にやっていたドラマ『カルテット』を夢中で見ていた。

面白くて。

 

内容は、バイオリン、チェロ、ヴィオラといった弦楽器を奏でる男女4人の物語で、キャストも松たか子松田龍平高橋一生満島ひかり、という手堅く色っぽい顔ぶれ。

(途中からクドカンも参戦し、出演者だけでも無敵の布陣)

 

洒脱なセリフの応酬を交えつつ、音楽という共通言語で結びついた4人の人間模様を、軽やかに細やかに描いた良作だった。

 

そんな『カルテット』の主人公のひとりで、チェロを演奏している満島ひかりさんの佇まいが、ドラマの中でもそれはそれは印象深く。

小鳥のように華奢な満島さんが巨大なチェロケースを背負って歩く姿が画面に映るたび、美しいそのアンバランスに私はいつも心奪われた。

 

そしてドラマが終わってからも、印象は残り続けて。

いいないいな、私も弓で楽器を弾いてみたいな。

そう思うようになった。

 

冬が終わり、新しいドラマが始まった、そんなある日。

我が家に「ニイハオ〜!」

とつぜん二胡がやってきた。

 

二胡というのは、上の写真の楽器。

弦はたった2本。

それを馬の尻尾の毛でできた弓で弾く。

黒檀や紫檀でできた本体にはヘビ皮が貼られており、ちょっと三味線に似た雰囲気だ。

 

日本ではマイナー楽器のイメージの二胡だけれど、

「西洋のバイオリン、中国の二胡

と言われるくらい、世界的にはポピュラーらしく、上海あたりじゃハーモニカやリコーダーの代わりに、小学生は音楽の授業で二胡の弾き方を教わるらしい。

(その眺めを想像するだけで、わくわくが沸騰)

 

その二胡が、どうして我が家にやってきたのか。

うーむ、くえっしょん。

やってきた理由を尋ねてみる。

すると二胡いわく、

「ヨバレタカラよ〜」

さあさあ早く弾いてみろ、と私に迫る。

 

チェロじゃないけど、満島ひかりじゃないけど、言われるままに弓を動かす。

と、音楽に関してど素人の私でも、しょっぱな悠久の時を感じさせる素敵な音色が!

 

そう。

音を出すだけならば、二胡は初心者に優しいようだ。

戯れに指でビブラートを効かせてみたりして、すっかり気分は上海在住・満島ひかり

母ゆずりの音痴、ピアノ・アレルギーだった私が、生まれて初めて音楽で喜びを感じることができた歴史的瞬間だった!

 

と、そんなファースト・二胡体験から早くも数ヶ月がたった。

最近の二胡はと言うと、ちょっと気難しい。

 

エアコンをいれろ、とか言う。

中国人に会わせろ、とか言う。

もっと2人の時間が欲しいのに、とか言う。

 

なんだなんだ、急にわがままになってきたぞ。

そう思いながらも、なんせ相手は悠久の音色。

エアコンは強めにいれるし、中国人にも会いに行く。

もっと2人の時間といっても、そばに置いておくだけじゃダメらしい。

もっと構ってくれ、というリクエストだ。

 

とりあえず、がんばる。  

川上弘美『真鶴』 入り口が消える恐ろしさ。

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先日の読書会にて、川上弘美さんの小説『真鶴』を取り上げた。

 

メジャーな芥川賞受賞作『蛇を踏む』だとか、映画化された『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの冒険』ではなく、あえて渋く、『真鶴』。

 

気づいたら知らない場所に立たされている。

そこがいったい何処なのか、たしかめる事もできない。

『真鶴』はそんな小説。

何となく「今、これだな」と思って選んでみた。

 


「これほどまでに不安定な場所へと迷い込んだら、二度と出てこられないのではないか」


ページを指先でめくりながら、怯えるほどに、小説『真鶴』はおそろしい。

(ホラーとか、殺人事件とか、そういう明るい怖さじゃないので)

迷宮の真ん中に置き去りにされた読み手は、そこに入り口も出口も道案内もない事にぞっとする。

そして、その迷宮が自分のいる場所とたしかに地続きであったことに、再度震え上がる。


ちなみに読書会の参加者からも、似たような感想を聞くことができた。

あながち私だけの印象ではないのだな、と思った。


以下、『真鶴』読書会で出た話、個人的な感想もろもろ。

 

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「大事」と「必要」は違う

 

真鶴には、こんなフレーズが、さらりと書かれていたりする。


自分が産み落とした娘は「大事」だけれど、産後しばらく遠ざけていた夫のからだがまた「必要」になってきて、だけど決して夫のからだが「大事」になることはないのだ、というような、自分と他者との関係性についてのドライな描写が散りばめられている。

また、一人称を省いた特徴的な文体は、だれが、いつ、どこで、という情報を隠したまま、そこで何かが為され、景色が動き、押し流されるように場面が変わるさまだけを読者に見せていく。


そのせいで、「誰が」「いつ」「どこで」という足場を失ったままの読者の意識は、『真鶴』の世界に飲み込まれ、小説自身の意識と、まるでなめらかな液体のように混ざり、溶け合って、わからなくなっていく。

 

いくにんかの登場人物たちは主人公の頭の中で溶け合い、輪郭はおぼろになって、それが夢なのか現実なのか、過去か未来か、その境界線も作中でははじめから取り外されて、あたかも自由に取り付けられるような恰好で、浮遊している。


主人公の母、そして失踪した夫との娘。古さの異なる三世代の女たち。


彼女たちを隔てて別個の個体として分けているものは、物理的な皮膚の間仕切りというよりはむしろ、溶け合おうとしても溶けきらぬ意識の成分の違い、たとえば、水に少しだけまじった油のような、そんなもので、そしてそれは、ひとりの人間の中にも、純度の異なるさまざまな成分が混濁し、ときと場合によって、そのいずれかが表面に浮きつ沈みつしているのかもしれない。と、『真鶴』を読み進むうちに、そんなことを「体感」することができる。

 

日本語の魔法が、炸裂している川上作品。


川上さんの文章の特徴として、主に動詞を中心に言葉が日常的な意味から、すこしずれた形で用いられている。

 

主人公がふいに欲情するさまを

「なにか思うよりまえに、うるんだ。」

というような短い一言で、「何が」も「誰が」も具体的なことをはっきりとさせないままに、それでいてこういう意味でしかない、というくらいに的はしぼられ、ことばの矢は射られている。


「うるんだ」という表現でしか表せない、欲情のしかたがあるのだ、ということを読者はそこで思いだし、あるいは知らされ、そしてそれとは違うさまざまな欲情というものに、しばし無意識に思いをはせる。


そういうやり方が、川上さんは本当にうまい。
そしてそのうまさが鼻につかないぎりぎりのところで、文体が『真鶴』の世界の部品のひとつとして、見事に機能している。


そんな風にさりげない、目に見えない、ともするとやさしいような手触りの毛布にでもくるまれながら読み進むうち、気が付けば私たちは、荒涼としたどこでもない地点へとひとりぼっちで立たされている。


それがおそらく、真鶴、という場所なのだと思う。


タイトルにもなっているこの地名は、作中唯一の実在する固有名詞。
(そして川上作品で固有名詞がタイトルになっている作品は、おそらくこの真鶴だけではないのだろうか)


物語の中に出てくるほかの場所は四国のどこか、とか曖昧にぼかされているし、人物たちの名前も、「百」だの「京」だの、どこか記号のような名づけ方で、人間くさい顔立ちをはじめから奪われているようなところがある。


つまり、真鶴という名前は、ときもところも、そして自分というものの輪郭さえおぼろな、どこでもない場所に連れ込まれた読者にとって、ただひとつの目印として与えられた、唯一たしかな座標点なのだ。
それはきっと、海上で漂流する船乗りたちが見上げる北極星に似ている。

読書会のはじまりでは、この『真鶴』というタイトルにひかれて読もうと思った、という意見も聞かれた。


けれど、読み手の興味を引くこの固有名詞が、実はどこかもわからない世界への入り口であり、そしてその世界から生還するために置かれた唯一の目印なのだということが、だんだんと分かってくると、私はまたこの「真鶴」というタイトルのつけ方がとても恐ろしくなった。
だってそれは、入口と出口が同じ一個である、迷宮の扉のようなものだから。

ことばでつくる世界の作り方にはいろいろあると思うけれど、こういうものを作ろう、と思えるほどまではっきりとしていないもの、というものがこの世界にはたくさんある。


川上さんのすごさは、そういうことば未満のものをことばで彫刻していく手腕をもっているところにあるが、それ以前に、そのことば未満のものたちをはっきりと「あるもの」としてとらえることのできる眼力。

それこそがこの人の作家としての本懐であり、おそろしさなのではないか、などという風におびえまくった『真鶴』の夜なのであった。

 

※本記事は、2013年開催の『真鶴』読書会のレビューを加筆修正したものです。

予感!直感!女子大生ワークショップ。

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長いお付き合いになる女優さんで、現在は高校生の演劇指導も手がける伊都子ちゃんからお声がかかった。

 

「秘密のワークショップを開催しまっす!

よかったら見学にお越しやす!!

ってか問答無用でお越しやんす!!じょわっ!!」

 

おお、何だか気合入ってるな。

ただでさえ地球温暖化でバテ気味サマーなのに。

あいかわらず平熱高いぜ…伊都子。

 

そんなわけで、お言葉に甘えて潜入してきた秘密のワークショップ。

 

参加者は、演技経験のある10代の少女たち(今はみなさん大学生)。

彼女たちは中学・高校の放課後を演劇部員としてひた過ごし、東京都の高校演劇大会などにも出場した経験を持つ。

 

演劇の大会。。。

 

なんかすごい響きだ。

 

高校演劇も「演劇の大会」なる代物も、私にとってはまったくもって未知の世界。

野田秀樹に憧れながら高校時代は飼い犬に『ハムレット』を読み聞かせて孤独をやり過ごしていた私が舞台を始めたのはようやくアラサーになってからですぞ?

 

それが、中高生で、えんげき、えんげきのたいかい、ですって。

 

あたくし場違いじゃないかしら、ふふふ、と出かけていったスタジオにて、さっそく参加メンバーを紹介される。

各々の属性を説明するのに、出てくる単語がバイトとかサークルとか必修科目とか。

若い!ハイティーン、若いよ!!

とおじさんみたいな感動と動揺を隠しつつ、私も自己紹介などして見学を開始。

 

そして役者としての顔しか知らなかった伊都ちゃんが、演出家として場を仕切っている新鮮さもさることながら、参加している少女たちにすっかり魅了されてしまう。

 

彼女たちの熱量に、うおいと圧倒され。

ちょっとした演出をつけると、わ、反応が素早い。

チューニング力の高さ、気持ち良い。

伊都子ちゃんが連れていこうとする場所まで、たどり着くプロセスが面白い。

自分の演技をしている瞬間と、借り物の演技をしてしまう瞬間と、その未整理な状態でよりよい芝居を探しに行っている感じが、真面目で、素朴で、もどかしく、もっと見たくなる。

 

キャラクターが立っている、

演者としてのスキル・ポテンシャルが高い、

ちゃんと欲がある、

という役者としての必要最低条件にプラスアルファで、

「新しい世界に連れていってくれそう」

という予感。

 演出家にとって役者選びの肝とも言える、その予感を彼女たちは猛烈に掻き立てる。

 

そんなこんなで、面白がってる内にあっという間にワークショップが終了。

良いもの見せてもらった〜と伊都ちゃんに感謝しながら、打ち上げにも参加。

18歳がノンアルコールで私の人生相談に乗ってくれる。

 

国語数学理科社会英語、演劇。

そんな感じでナチュラルに演劇と溶け合った学校生活を過ごした少女たち。

また私を新しい世界に連れていって欲しいよ、と心の中で囁きながら、終電間際その背中に手を降る。

演じること、新しい景色に目を凝らすこと、見えないものを肉体に落とし込んで人に見せること。

その楽しさとむずかしさをもっともっと味わって欲しいな、と年上らしく、思った夜だった。