雨は動く線だ。
誰かの思いつきのように、その線はいつも脈絡なく開始される。
線は、巨大な余白にすばやく描きこまれて、質量と運動性をもっている。
うねりながら落下し、無制限に数をふやす。
まるで、生き物のように。
白い余白が幾本もの線によって埋め立てられると、そこはもう余白ではない。
あたらしい名前が発明されて、私たちは、そら、と口ずさむ。
そら、に引かれた線を拡大すると、そこに色がある。
色は奥行きを表して、線が立体なのだと私たちは知る。
誰かが指を触れると、色の内側に温度が見つかる。
温度は漠然としていて、どこか手ごたえが不足している。
それは、こちら側とあちら側とに切り分けられない、いろいろなものを思い出させる。
地上の生き物が水から生まれてきたことについて誰かが考えている。
目を閉じて、そしてふたたび目を開く。
そのまばたきのはじまりに人が死んで、そのまばたきの終わりに誰かが人を産み落とす。
雨に占領された空の一辺は地上と分かち難く密着している。
線の先端は空をはみ出して、地上へと流れ込んでいる。
その流れ込むすがたを眺めている誰かが、液体、という言葉の意味を辞書で調べはじめる。
音楽はまだ現れていない。
聴覚と音感を持つ生き物が、まるで愛するような仕草で、それを待っている。
待つことをいとわない人がひっそりと眠りに落ちて、ほんのつかの間この世界から退場する。
人がいなくなって広々とした画面の中に、線がさしこむ。
線は音にすがたを変えていて、誰かがその気配を音楽と間違える。
それが間違いであることを知らせるために、私は小さなプレイヤーを取り出して、スイッチを入れる。
ボタンを押して電気がはしると、そこにしっかりと組み合わさった音の集合が出現する。
なんてすばらしいんだ。
誰かが感動した証拠を見せるように、手のひらをたたく。
指揮棒がオーケストラを演奏する。
風に舞う胞子たちのように、空気中に音の群れがふくらんで広がっていく。
ポケットの中に入れたままの四角くて薄い紙のような金属製のプレイヤーはわずかに熱を帯びている。機械がもたらすその熱を私たちはときどき命と取り違える。
けれど、そのことは、ちっとも問題にされない。
ちっとも、というその言葉の形。
その形を、肉体において確かめることを、私たちは試みている。
意識を集中すると、わたしの中に巨大な大聖堂が現れる。
石造りの、かたい、美しい建物を、たくさんの音が、音の重なりが、作り上げていく。
まずさいしょに建物の入り口ができて、高い天井のついた空間が太陽がのぼる速度でゆったりと現れる。
ステンドグラスのはめ込まれたおごそかな礼拝堂ができて、わたしはその内部を奥へと歩いていく。
恩寵のような光の点。
床にばら撒かれた、命のような点。
それらは、命に似ていて、くっきりとした輪郭を少しも持っていない。
光は、何かを照らすわけでもなく、ただ光そのものとしてそこにあって、動かず、地上に、とどまっている。
影と光の点が世界を覆う、ひとつづきの模様になっている中へ、わたしは踏み込む。
光は床から私の肉体の表面に、一瞬で移動する。
いくつも移動する。
点はほかの点とつながり、やがて私自身が大きな光そのものになっていく。
光になった私の先に、何かが見えている。
けれど、それが何かは判然としない。
私が光になるほどに、見えるものは暗く、わからないものになっていく。
めをとじる。
何かを見破ろうとするでもなく、ただわからないことを味わうために。
息をすう。
肉体がここにある、ことをたしかめる。
たくさんの音が束になって、私の背中を前に押し出す。
たくさんの腕が私の意識をからだごと前に引き寄せる。
気がつくと、わたしは音楽に抱きしめられている。
振り返っても、来た道はない。
過去は、すべてが跡形もなく、消え去っている。
余韻だけが残っている。
何かが、たしかにそこにあったはずだ、という余韻。
けれど、わたしの皮膚は、その形を、たしかめることができない。
考えようとするそばから、浮かんだことは泡のように消えて、どこかになくなっていく。
音楽はいつも輪切りだから、と生き物が言う。
それを手のひらにのせて、眺めたって仕方ないんだよ。
ただ抱きしめ合うことでしか、たしかめられないものがある。
それをわたしはずっと前から知っているような気がする。
生き物は、飛行機の翼みたいな巨大な包丁をゆったりとかまえて、焼きあがったばかりの大きな大きな食パンの塊をうすく、一枚ずつスライスしていく。
切り分けられた断面図を、わたしは一枚いちまい時間軸に沿って並べ置いていく。
音楽も食パンのように、切り分けて食べられたらいいのに。
生き物はそうだね、と答えるかわりに、新しい食パンをかまどから取り出している。
ずっしり重たそうな長方形のかたまり。
湯気を放ち、りっぱなオーク材のような色をしている。
生き物はそのりっぱなかたまりを、広い作業台の上にいくつもならべていく。
地平線の向こうまで、作業台は続いていて、湯気のたった食パンの行列も、規則正しく模様のように世界の果てまで続いている。
これをぜんぶスライスするつもりなのだろうか。
生き物にたずねようとして、そこに誰もいないことに気づく。
雨がやんだ空の虚ろさを誤魔化すみたいに、黒い鳥の群れが地上をよぎる。
着陸のアナウンスが流れて、頭の中の大聖堂はすでに形を失っている。
足場を失った音の群れたちが耳の中にさまよい、出口をもとめてもがいている。
指先でボタンを押し、プレイヤーを止めて、イヤホンをそこに巻きつけ、腰の後ろから安全ベルトをたぐり寄せながら、鳥が去ったあとの窓の中をのぞきこむ。
窓から見下ろすと、地上は道端に捨てられた薄汚れたパンケーキのように、泥水を吸って膨らみ、ぐったりと死にかけている。
これから向かう世界は、ぬかるみと憂鬱な気分を混ぜ合わせたもので出来ている。
そんなことを思う。
ベランダに干しっぱなしで雨に降られたときの敷き布団、と彼が言う。
起きていたの、とたずねると、いま、と返事をしながらほんの少しだけ残っているミネラルウォーターの紙コップに唇をつけて、きゅうくつな座席のシートに体をこすりつけるように腕や足を伸ばしている。
眠りのせいで体温がすこし上がったのか、動くたびにかすかに彼の肌のにおいがする。
飛行経路を示す液晶ディスプレイの地図の中で、白い飛行機の絵はアムステルダム、というアルファベットの文字の上に着陸しようと試みている。
乗り換えた飛行機の中では日本語のアナウンスも乗務員も消えてしまって、私たちは耳慣れない音楽を楽譜に起こす時のように要所要所で流れる英語のアナウンスに耳をすました。
神経を休めようと食べものを口に入れ、ミントの粒を手のひらに出して、大事なものをいたわるような仕草で、ていねいにていねいにそれを舐めた。
座席の正面に設置されたモニターの中で、誰にも愛されていない映画のラインナップが明るく光っていた。
細切れのあさい眠りと短い会話、ふいに運ばれてくる小さなカップに入ったスープやくだもの。
あたたかい食べ物の匂いを嗅ぐことが喜びに変わりはじめた頃、雨が降り始めた。
気がつくと、飛行機は雲の下に向かっていた。