名前はとても不思議なものです。
生まれてから死ぬまで、現代にっぽん人は、一生涯ひとつかふたつの名前を使い倒して生きていくのだ、というのが、私はにわかに信じがたい。
例えば男の子という種類に生まれると、余程のことがない限り人生を一色の、唯一絶対みたいな一個の名前で生き通すのだ。 そんな事をふと考えると、なんだか恐ろしいような、立派なお城を前に「ははあ」と感心する時みたいな、ちょっと口が開いてしまうような、そんな呆然とした思いに駆られるのですね。
私は女の子のとき、2度ほど苗字が変わりました。
古くなった父が去り、また新しく父が現れて、小学校の名札や出席簿で呼ばれる順番が、ある日こっそり書き換えられました。
はじめはやはり慣れなくて、知られてはいけない特別な秘密を抱えたみたいに、しごく緊張しながら生きていましたが、そのうちすっかり慣れました。
大人の女の子になってからは、自分でつけた名前を名乗ったり、けっこん、りこんで国やキンムサキから呼ばれる名前がくるくる入れ替わったりしたせいか、名前というのは洋服みたいにお着替えできるものなのだ。
そんな感覚を強く持つようになりました。
そう。
お洋服と一緒で名前にはシーズンがある。
旬、が存在するのです。
そのせいで、ある時から、なんだか自分の名前が似合わなくなる、という事が起こります。
旬を過ぎてしまって。
呼ばれても名乗っても、どうも落ち着かない、むず痒い感じ。
わたしは一体どうしちゃったのだろう。
新しい靴やかばんが欲しくなっても、ぜんぜん気に入るものが見つからない時の苦しさ。
新調しようと思いついた時から、もう使い古しには戻れない。
宙吊りになって尚くるしい。
目新しい名前を、はやく楽しみたいのです。
ノートに書いたり、メールで知らせたりして、これが自分よ、と浮かれたいのです。
わたしは、今日から新しい。
自分で決めた誕生日。
過去と現在とを区切るものは、いったい何でしょう。
カレンダーの日付なんて、味気なくていやです。
わたしは名前で線を引きたい。
この瞬間から、またピカピカ誰も知らない、新しいストーリーのはじまりはじまり。
色褪せほつれた名前を脱いで、ぴんと張った生まれたての布地でドレスアップしたら。 わたしは単純なのでしょう。 またうきうきと軽やかに、生きていける気がします。
(そんなわけで、わたくし本日から、みらい平ゆみ、になります。お知らせでした!)