夏目漱石の『こころ』を再読している。
初めて読んだ高校生のとき以来、『こころ』は何度か読み直している作品。
二十代のはじめ。
三十代の半ば。
もはや覚えていないタイミングでの、数行の拾い読みも合わせると、好きな映画を折に触れて見直すような感覚で、私は本作を読み直しているようだ。
再読のたび、気づく事がある。
例えば、『こころ』は時間の小説だ。
主人公の中に流れる時間。
先生の遺書の中に流れる時間。
記憶の中に流れる時間。
それらを読む私たち読者の中に流れる時間。
複数の時間は梁となり柱となり、一つの空間を作り出す。
それが「こころ」という、多次元の空間だ。
1番さいきん、『こころ』を読んでいて感じたこと。
それは、「創作に対する模索期間」を終えた漱石が、『こころ』においては、すっかり「創作による模索」が可能になったのだなぁ、ということ。
迷いの晴れた、すくとした力強さ。
しなりのある、柔らかな頼もしさ。
読者に対する細やかな配慮、妥協のなさ。
おのれのエゴを用いつつ、そのエゴに飲みこまれない骨太な客観。
創作のハンドルさばきを心得た作者の美点を数え上げれば本当にきりがない。
つまるところ言いたいことは、『こころ』という作品が、作家としてつやつやと脂がのった夏目漱石の良き時代を存分に味わえる良作であるという、ごく凡庸な所感ではあるのだけれど。
何度かの再読を経て、自分はようようそれが身にしみたという体験をこうして伝えているわけです。
ちなみに高校時代に初めて「こころ」に自分が抱いた印象は、「うわ、文学臭いなぁ」というネガティヴなものだった。
けれど、その鼻につく感じというのは何だったのかと自問すると、おそらく第三部の「先生の遺書」のところだけを切り取ったものを、まず最初に読まされたからなのではないだろうか、などと国語授業のせいにしてみたりして。
そんなわけで。
小説を再読する効能。
じわじわっときています。
さまざまに湧く感慨を腹の中で噛みしめて、しみじみやっている2017年、夏。
(あ、そういえば2016年は漱石の生誕150年でした。怒涛の記念イベント・フェアがすごかった。レインボー漱石が表紙になった文庫本とか)