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死なないための1つの解、三鷹天命反転住宅。

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この肉体が滅びてもなお、世界と溶け合ってその一部となり、存在し続けるものがあるのではないか。

 

それは長らく私の個人的な予感であり、時々は確信であった。

 

目に見えないものを、どのように取り扱えば「大事」にできるのか。

 

それを考える手段が、自分の場合はアートを作ることだと思い始めてから、長らく心に引っかかっていた「三鷹天命反転住宅」を訪ねることにした。

 

結果、その場所は、いまの自分にとって出会うべき、的確な解の1つであったように思う。

 

www.rdloftsmitaka.com

 

芸術家/建築家の荒川修作とマドリン・ギンズが手がけたこのカラフルな建物は、「死なないための住宅」というコンセプトを掲げており、実際にそこに泊まったり、住んだり、という形で作品と関わることができる。

 

今回私が参加したのは「見学会」という名のワークショップだったが、限られた時間ながら実際に住宅の中に入り、その空間を体験できる、素晴らしく広がりのある内容だった。

 

学芸員の方による作品の解説の中でも印象的だったのは、写真などで「天命反転住宅」を見る時にまず目を引く、ビビッドな、ともすれば刺激が強すぎると感じる建物のカラーリングが、単なる装飾的な目的ではない、ということ。

 

建物がカラフルな塗料で何色にも塗り分けられている目的は、アート作品として人工的に「自然」を再現しようとした時に、「多様な色彩がそこに居合わせている」状態に置き換えるのが最も「自然」に近い状態である、という意図のもとに作られているのだという。

 

「自然の色」というと、植物の「緑」や大地の色、海や空の「青」などで塗ることを連想しがちだが、それはあくまで人間が「自然」を切り取った時の一部にすぎない。

 

本来の「自然」の色彩というのは、私たちが識別しきれないくらいの無数の色彩がそこに存在している状態であって、その状態を表すには、一見すると「うるさいくらいの色数がひとつの空間にある」場所を作ることが必要なのだ。

 

そのような意図に基づいて設計された空間において初めて、私たちは「いかにうるさい色彩環境においても、人間の視覚はそれに慣れる機能を備えている」ことを体感することができる。

 

ほかにもワークショップの中では、頭で理解する前に「身体がその場所を理解し、すでに対話が始まっていること」を気づかされる瞬間が多くあり、プログラムが進むにつれて、自分の身体における知性が明るく目覚めていくような感覚があった。

 

すみずみにまで思想が行き渡り、かつその思想が一つの作品として訪れる人の身体に(頭ではなく、身体に直接)語りかけるよう設計されている点が「住めるアート」と言われる所以であるのだ、とつくづく腑に落ちた。

 

 

荒川修作とギンズの作品において用いられている、「死なないため」という言葉の意図は、物理的な死を超えていくような、人間の可能性を知ろうとする態度を指しているのだと思う。

 

肉体の死は、あくまで表層的な存在の終わり(見かけ上、そこで終わりに見えるような区切り)にすぎず、「天命反転住宅」は物理的に肉体が滅ぶことは、人間の存在が消えてなくなる事とイコールではない、という思想を模索するための装置として、丁寧に見事に設計されていて、それを作品として具現化するに至った作り手の中にある、命を掴もうとする切実さを思わずにいられなかった。

 

人間の身体の可能性は、「死」という見かけ上の終わりを超えていく。

 

「死」を超えようとすること。

それは、物理的な死を遠ざけることでも、やみくもに生命を引き延ばす努力のことでもない。

 

人間の肉体と精神、魂の可能性を自らの身体で知ろうとする態度、身体に付与された知性を知ろうとする事こそが、生きようという意思の表明であるのだと、そんなことを思った。