ふとした流れで、写真展へ連れていってもらった。
私の知らない、若手の写真家の方の個展。
まるでフィクションのように猛烈な暑さの中を歩きながら、緑で覆われた古く翳ったビルを探し当てると、そこは現実から切り離されたように静かで、時間はひた、と立ち止まっていた。
ビルの3階にある小さなギャラリーの窓から見下ろすと、すぐ目の前に小学校のプールが太陽の光を細かく砕いて反射しているのが見えた。
少し視線を伸ばすと、都会らしいビルの連なりが空を切り取り、その足元に流れ込んでいく車の流れが、川の水面のようになめらかに日差しを動かしている。
展示されている写真は、心象風景のような景色だった。
景色たちは薄い紙に焼かれ、透明なアクリスケースに閉じ込められて、唇をやさしく閉じたまま、そこに並んでいた。
すべてが、海辺で撮られたものだった。
砕けた石や砂や植物たちの中に、ペットボトルやタバコの吸い殻、脱ぎ捨てられたビーチサンダルが取り残されていた。
誰かがそこに居たという痕跡。
浜辺に残された人工物たちが、自分たちの来歴を忘れ、名もないただの物体になっていく途中経過。
その様子は、人の手によって生まれた品物たちの死であると同時に、すべての存在に拡大される循環の仕組みだ。
私たちも、いつかこんな風に死んでいく。
それはあまりにも自然な景色で、だからこそ淡い悲しさが滲んでいる。
まだ若い、写真家の方と少しだけ言葉を交わした。
撮るときは、自分の手で何かを配置することはしない。
訪れた場所で見つけたものだけ、もともとあった景色だけにシャッターを切る。
それが自分の中のルールです、とその人は言った。
ルール、という言葉を使っていたけれど、その決め事は彼の中にある生理なのだろうと思った。
自分の中に、はっきりと存在している世界の見え方。
それを写真を通じて、他者に手渡すために、形に「あらわす」ために、避けて通れない仕組みのことを言っているのだろう、と思った。
自分の心が触れた対象を、形なきものを、さわって、確かめられるものに置き換えること。
手応えのある何かに変換して、そこへ触れるための親切な、はっきりとした目印を設けること。
その変換の誤差を少しでもなくすこと。
何が誤差で、そうでないのか、見極めること。
それらをやり続けることもまた、「あらわす」人の生理であり、切り離すことのできないその人自身であるということを、まざまざ見つめながら帰ってきた。
すべての瞬間を透明なケースに閉じ込めて、何度も見つめ直したいような、眩しい時間だった。
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KazumasaHarada
「a Shape of Material」
@みどり荘中目黒
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