夏が来たので、毎日のように部屋の中でスプーンを振り回している。
金属製のスプーンを使用していることもあり、タンスや本棚を傷つけないように注意が必要。
これがなかなかに神経を消耗するが、止めるわけにもいかない。
それもこれも夏の暑さのせいである。
私の住んでいる部屋は、いわゆる、ロフト、というものがあって、それが空間を二つに分けている。
地上と、ロフトと。
天井はさらにはるか上空にあって、雨風から生活を守ってくれている。
なんとも頼もしい。
私の背丈がこの先いくら伸びても何も心配はいらない。
そんな余裕を感じさせる天井高である。
しかし、ジャンプしても絶対に手が届かない天井の電球のつけかえは、実際けっこう命がけだったりもする。
椅子を上下にふたつ重ねた上に、墜落しないよう上海雑技団的なバランス感覚を駆使して、電球をくるくる入れる部分から出てくる変な黒っぽい焦げかすみたいなものを顔面に浴びつつ作業しなければいけなくて、高い天井も考えものだよ、と肩をすぼめてみたりする。
(ものだよ、という口調はちょっとちびまる子的だ)
ロフトの広さは、平均的なロフトよりもだいぶ広い。
平均的なロフトというのは、ちょっと荷物おけるスペース、くらいの。
おしゃれな押入れ的な、そんな位置づけだと思うのだけれども。
うちのロフトは、だいたい人間がひとり、ふたり、住めるくらいの面積がある。
お布団は2組ほど敷けるし、寝返りをがまんすれば三人くらいは横になれる。
天井が高いので、ロフトでしゃきーんと仁王立っても、頭はぶつからない。
可能性に満ち満ちているこのロフトは、種を蒔きたいと思えば畑だって始められるし、水をひっぱってきてボートでも浮かべたら、吉祥寺・第2の井の頭公園として、なかなか繁盛を極めるかもしれない。
そんなロフトが私の寝室がわりというか、屋根裏部屋みたいな落ち着く良い感じのスペースになっている。
ロフトの端っこには上り下りするための木製の梯子がかかってたりなんかして、なんかもうメルヘンだ。
ちょっと横になって本を読もうかしら、なんてサンドイッチと麦茶を片手に梯子をのぼったり降りたり。
飼い猫たちも炭酸水を入れたシャンパングラスを肉球に握って、にゃんにゃんと登ったり降りたり。
そんな光景はとても平成ジャパンの代物とは思えず、絵本の世界の住人さながらの日々を絶賛的に自画自賛して暮らしていたりする私なのだが、今年はそんなメルヘン・ロフト・ルームに引っ越してきて初めて迎える夏なのである。
夏。
夏といえば、
猛烈な暑さ。
しゃくねつ。
日焼けですら致命傷。
朝起きて窓を開けるたびに、顔面に熱い夏の吐息がかかる。
私にとって、この夏はまさにあの「魔王」そのもの。
お父さん、お父さん、と吉祥寺中に響き渡る声で助けを連呼したいほど、部屋の温度は急上昇。
夜中に汗だくで目覚める。
めまいを起こしながら水を飲む。
一体いつから吉祥寺は赤道直下に場所を移動したのだろう。
そんなことを思う。
ともかく。
これは、ただならぬことになったぞ。
私はおののいた。
こんなことになる前は、あれを使えばいいと思っていたのだが。
あれ。
あれというのは、そう。
文明の利器、エアーコンディショナー。
あだ名は、エアコン。
ときどき「マザコン」とか「糸こん」とうっかり間違えてしまうのだけど、それらとはまったく別の電化製品の方のエアコン。
そのエアコンを使えば、何のことはないと思っていた。
ところが、である。
かけてもかけても、
設定温度を下げても下げても、
ロフトつき我が家の上層部は猛暑のまま!
なのである。
おまけに窓がないロフトでは、換気もできない!
のである。
かくして、圧倒的に冷たい層と地獄のように蒸し暑い層。
室内の温度はその上下二層にきっぱり分かれてしまって、決して自ずからは混ざらない、混ざる気配すら見せない。
なぜ。
なぜこんな現象が起こるのか。
不思議に思った私は、理科を勉強した。
冷たい空気は、あたたかい空気よりも重い。
なぜなら密度が大きいから。
あたたかい空気は、冷たい空気よりも軽い。
なぜならあたたかい空気は密度が小さいから。
軽くてホットな空気は上に、クールで重たい空気は下へ。
だから部屋の上層部だけが、いつも灼熱のタクラマカン砂漠になりやすい。
密度が大きいと重たくて、密度が小さいと軽い。
はじめて知った。
密度っていうのは、何かというと、きっとそこに含まれる黒蜜の量が多いか少ないかとか、そんなようなことだと思う。
つまり、エアコンを駆使しても、あたたかい空気は黒蜜の量が少ないので、ふわふわふわわと部屋の上部にいってしまうし、冷たい空気は黒蜜の量が多いので、ぽた、ぽた、ぽたりと部屋の底の部分にたまっていく。
たしかにそう言われてみれば。
プリンや何かも容器の底のほうにカラメルがたまっているし、わらび餅や何かも上から黒蜜をかけたところで、蜜たちは放っておくと、どんどん下に流れていくではないか!
あれは密度が小さい(蜜の量が少ない、そもそも蜜じゃない)と上にいく、密度が大きい(蜜の量が多い、というより蜜そのもの)だと下にいく現象をそのまま体現していたわけか。
理科を学び、デザートを参照して、私はここに解決の手がかりを得た。
底に沈んだ甘い蜜を、上の層と一緒に味わいたいとき。
プリンのカラメルをちょっと上の部分に絡めて、味わいたいとき。
人はどうするか。
混ぜる。
スプーンで、混ぜる。
圧倒的に、混ぜる。
きっと、誰もがそうするはずだ。
かくして私は銀色のデザート・スプーンを両手にかまえ、朝に夕に部屋中の空気をかき混ぜるべく、上下左右に激しく振り回している。
蒸し暑いワンルーム、
梯子を昇り降りする猫、
スプーンを振り回す人間の私。
見ようによってはメルヘンそのものであり、私の振る舞いも魔法少女さながらであるが、猛暑に悩む他の人たちも一様に同じ対策をとっているのか。
ふと考えると、エアコンの設定温度は少しも変えていないのに、部屋の中央を、ひや、と涼しい風が吹き抜けていく。