6月某日、梅雨入り。
頭の中で急に文章がはじまる。
ためしにノートパソコンにて視覚化してみると、いよいよそれは新しい小説のかっこうをしている。
いやはや。
春先からふくらんでいた小説の構想がいよいよ食べ頃、もとい書き頃を迎えたのであるな、と納得し、数日間ぶっ続けで執筆。
姿勢がわるいのか、行いがよくないのか、さっそく首と背中を痛める。
歯磨きの時にうがいをしようと上を向くたび、頸椎に激痛が。
執筆を中断して、ひたすら昼寝をして養生。
出口を見失った頭の中の文章がくちゃくちゃに丸まってしまう。
出鼻をくじかれた気分。
6月某日、くもり。
家にばかりいるのも何だな、と思い、渋谷に映画を見に出かける。
出不精の私を渋谷まで動かしたのは、『勇者ヨシヒコ』の福田雄一監督による『50回目のプロポーズ』。
一応は恋愛映画のフォーマットを使っているものの、ふんだんに福田ギャグが散りばめられた秀逸なコメディだった。
終始劇場全体がクスクス笑いに包まれていて、空気がぽかぽか温かい。
面白い上映作品に居合わせた時ならではの、ほんのりとした客席の連帯感に浸る。
同じ映画館で、カンヌ映画祭でグランプリを獲った是枝監督の『万引き家族』が絶賛上映中であったが、脇目もふらずに『50回目のプロポーズ』などという軽薄なタイトルをチョイスできた自分が誇らしい。
いろんな映画があっていい。
気取らず、賢しらぶらず、パルムドール受賞作をスルーして、スクリーンをよぎる長澤まさみの脚線美に嘆息している自分はなかなかクールな観客じゃないか。そんなことを思いながら帰ってきた。
6月某日、土砂降り。
書き始めた小説を再開しようと思うが気が重たい。
首も背中もだんだんとよくなってきているのに、Macbookを開こうとすると巨石のように重たくて開けない。
なぜだろう。
小説を書くことはそれなりに面倒な作業ではある。
が、好きでやっているから別にそれが苦しいとは思わない。
ではなぜ。
いろいろと原因を考えて、状況を整理し、酒を飲んで酔っ払ったりして行き着いた答えは、
「書きたいけれど、今じゃない」
ということだった。
「今でしょ!」と誰かに言い切られても、今じゃないものは今じゃない。
なんだなんだ、そうだったのか。
どうやら先の小説を読んだ人から、次も読みたい、もっとたくさん書くとよかろう、などと激励されたことにより、自分自身の心が「こうなったら次々に素晴らしい作品を作らねばならない」と知らず意気込んでいた模様。
人の期待に応えようとすることは、一見すると良さそうなことであるが、その動機を腑分けしてみると、実際は褒められたい助平心が元になっていたりする。
認められたい、褒められたい、は人の内側にきざす自然な心ではあるけれど、文学なり芸術なり、とかく表現というのは、自分をなくしていった先に初めて見えてくるものを作品として結晶化させる行為であって、そこに社会だとか世間だとかの目を意識する気持ちがあると、どうしても視界は悪くなるし、筆さばきも鈍る。
創作の苦しみ、などと言葉にすると体裁は悪くないが、そこにあるのは紛れもなく、ただただ人間としての虚栄心である。
どんなに芸術家を気取ってみても、自分は人並みのありふれた人間であるなぁ、などと思い、結果的には爽やかな心持ちに落ち着く。
執筆を中断して、しばらくは猫と遊んで暮らすことを決める。
いかなる栄光も絶賛も、それらと距離をとれる場合にだけ人に幸いする類のものであるとしみじみ思う。