恋人に勧められて日本の文学小説を読み始めたのは、15歳の夏休みであった。
初心者の私でも読めるだろう、と最初にレコメンドされた作品は、
2作ともある意味リーダブルな作品ではあったけれど、コナン・ドイルやシェイクスピアしか知らなかった牧歌的な女子高生のメンタルには、どちらもいささかセンセーショナルな内容であったと記憶している。
死と性。
厄介な自意識とのガチの向き合い。
繰り出されるクサい比喩。
文学作品の織りなす、常識の埒外の世界観。
当時の私にとっては何もかもが強烈な初体験であった。
文学。
その禍々しくも魅力的な魔世界への入り口が、こともあろうに公立高校の図書室の一角に設置されている。
そして、厚紙でできた図書カードへの氏名の記入と引き換えに無知で平和な青少年にも大々的にそれらの魔書が貸し出されている状況が、その時の私には大変異様なシチュエーションに思われたものだ。
(その構図はまるで、よく晴れた遠足の日の朝に台所に立つお母さんがプラスチックのお弁当箱に核燃料を詰めているような、そんな恐ろしくシュールな光景を連想させた)
けれど、そんな出会いの衝撃とは裏腹に、私の10代の頃の読書というのは形ばかりのファッションに近いもので、それを文学鑑賞と呼ぶにはあまりに稚拙であったと今となっては少なからず残念に思う。
もちろん作品を読み、話の筋を頭に入れて、印象的なフレーズに心打たれることはままあった。けれど、それでも個別の作品の内容に本当の意味で触れることができたのは、年月を経てようやく30歳を過ぎてから、というのが正直な実感である。
そのように言えばいかにも文学において早熟であったように響いて聞こえはいいが、文字列の奥にある作品の姿を捉えるだけの眼力というのは、自分の場合はその後の人生を生きる過程において知らず遅れて蓄えられてきた。
そんな気がしてならない。
そしてまた、私が本当の意味で「小説の書き手」というものに感嘆したのは、自分が文章を書き始めて、詩でも散文でもなく、「小説」というフォーマットを用いて作品を作ることを実践してみての事だから、それはもう本当についここ最近というタイムリーな話になる。
いずれにせよ、10代の時に一度は読んだ小説群を40歳近くになって改めて読み返した時にまったく初めての感動に行き当たるというのは不思議で得難い体験である。
それと同時に優れた骨太な作品なればこそ、多少は肥えた私の鑑賞眼を軽々と圧倒してなお力を余しているのだろう。
そのように推察する。
そこに感心することしきりである。
そんなわけで、先日から村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』という長編を読み返している。
この『ねじまき鳥クロニクル』は村上さんの小説家としての人気も大々的かつ安定したものになり、環境もコンディションも申し分ない、いわばキャリア・ハイの最中に絶妙に脂がのった筆で意欲的に描かれた大作、という印象を私は抱いている。
初めて読んだ当時(私が高校2年の頃に「ねじまき鳥」は書き下ろしの長編小説として発表された)にも、「なんだか村上春樹の新作すごいな」と思った記憶があるが、あらためて読み返すと当時は全然分からなかった成分を味わうような、新鮮な感動がある。
それは以前なら見えなかった「小説の設計図」がまるでレントゲン写真のように見えることだったり(そこには地図も持たずに散々歩き回った迷路の見取り図を手渡されたような、作者と作品の答え合わせをする喜びと俯瞰の視点に立ったときの興奮がある)、主人公である「僕」が歳をとった今の自分から見ると年下の男の子、であるというだけで小説の肌触りがかなり違うものに感じられたり、といった新たな発見だ。
そして、読みながら高校生の私が感じた「すごいな」の正体を少しずつ腑分けしつつあるのだが、この作品をはじめ、村上作品の醍醐味はやはり、テクノロジーが発達した現代だからこそより深く大胆に踏み込める「人間の意識」という領域において、小説的なアプローチを実践している点にあるのだと印象を強くしている。
小説という形式を使って「人間の意識の模型」を作ることは既に夏目漱石が実践しているが、漱石よりもよりダイレクトに分かりやすくやっているのが村上春樹という作家だと思う。
春樹はピカソだ。
セザンヌは一見すると、林檎とか山とか、ごくごく普通の静物画や風景画を描いているようでいて、実はそこで空間の再構成とか抽象的な実験をいろいろとやっている。
(そのために同じモチーフ、同じ構図の絵を何百枚も描いている)
それに対して、村上春樹はピカソのように分かりやすい。誰が見ても「実験的」なことをやっているイメージだ。
分かりやすいがゆえに、描かれた絵の意図を読めない人がアウトプットされた結果だけを見て、「下手な絵」だと言い始めたりする。その作品の価値を決めるのは「写実性」ではなく、「実物を二次元平面に落とし込む時のプロセス」である、という事は多くの人には伝わりにくい。
そのような背景があるから、漱石のようにオーソドックスな物語としても読める作風の方がその小説の読み手の層は厚くなる気もするが、春樹がこれだけ支持を集めているというのは彼の小説がアウトプットの結果だけでも魅力的である、ということもさることながら、その下敷きになっている「小説によって作られた人間の意識の模型」というものが、いかに人を惹きつけるか。その証左であるように私は考えている。
そんなわけで、細部のディテールや読み心地の好き嫌いはままあれど、やはり代替可能な書き手がほかに見当たらないという意味で、村上春樹は本当に現代を代表する作家であるなぁという感慨を深めるとともに、その作品の「読み方」のようなものがより広く豊かに共有されることは自分の創作においても回り回って益あること、などと思ったりする。
(三島由紀夫の話も書こうと思っていたのに、長くなってしまったのでまた次の機会に。ちなみに私が一番好きな村上作品のは、「ダンス・ダンス・ダンス」という長編です。「ジョジョの奇妙な冒険」でいうと第3部、「ターミネーター」で言えば、第1作を踏まえての「ターミネーター2」的な位置づけの作品で、「羊をめぐる冒険」という作品を読んでから読むことを強くおすすめします)