5月中旬某日。
引きこもっている。
人間との対話に乏しい毎日。
茶店での注文やよろず屋での挨拶を除けば、話らしい話をしていない。
社会性という筋肉がこのまま衰えて戻らないのでは。そんな不安が芽生え、なかば無理やりに出かけてみる。
近隣の書店で行われている本の出版イベントや、読書会といった集まりに参加。
発言の機会は十分にあり、多少なりとも内容のある会話をかわすことで、脳と社交性に刺激を与えたいと目論むが、催しの内容はどれも退屈極まりなかった。
うんざりした気分で帰宅。
茶店の注文とよろず屋での挨拶だけで、いまの私には必要十分量の社交生活だと思い知る。
5月下旬某日。
体のメンテナンスの効果が出てきたような気がする。
首の痛みもほとんど出なくなってきたし、眠りすぎることもない。
4月から始めた室内でのエクササイズも板についてきた。
体重や体脂肪といった数値にそこまで変化はないものの、1時間半程度のトレーニングが苦行ではなく習慣に変わりつつある。
我ながらとても素晴らしいことだと思う。
そんな矢先、飼い猫たちの毛づくろいを手伝っていたら、白猫の額の部分に瘡蓋を発見。
ブラシで毛をかき分けてみると、一箇所だけでなく額全体にわたって瘡蓋が広がっている。
ネコダニ、疥癬、皮膚癌、脱毛、免疫不全。
インターネットに散らばる不穏な単語を集めていると、恐ろしさばかりがそそり立つ。ひとまずかかりつけの動物病院を予約。
猫は何も知らず、瘡蓋まみれの頭で狭い部屋の中を無邪気に走り回っている。
夜、獣の小ささが哀れで真っ暗な部屋でひとり泣く。
姿見の中に自分の引き締まった腹筋がむなしく映っているのを見つけて、用心深く生きても避けられない不幸、という誰かの言葉が眼裏に浮かぶ。
5月晴天。
発明家のミサンガと渋谷の坂の上で待ち合わせ。
渋谷の坂の上は駅でいうと井の頭線の「神泉」という場所なのだが、土地の起伏と坂道によって構成されている駅周辺というのが、まるで岐阜にある「養老天命反転地」だ、という話で盛り上がる。
現代美術家であり、思想家でもある荒川修作の作品「養老天命反転地」。
この作品のコンセプトは「人間は死なない」というものであり、物理的に肉体が滅びた後も、土地の記憶として、あるいは編み込まれた時間の一部として、人間は死なず、場所と溶け合って生き続ける、という思想が埋め込まれている。
実際の「養老天命反転地」はカラフルな屋外アスレチック、という出で立ちなのだけれど、「鑑賞者が斜面や坂道で怪我をするのではないか」という安全性を懸念する管理者サイドに向かって、荒川修作は「そうでなくちゃ意味がない」と言ったという記事を何かで読んだ。肉体の可能性を、破損や不自由という広義の可能性も含めて、最大限に引き出し、意識化する装置として「養老天命反転地」は存在している。
渋谷円山町近くの迷宮のような路地裏のアップダウンを踏みしめながら、私は足元の地面に向かって「そうでなくちゃ意味がない」とは思わない。
私が思うと思わざるとに関わらず、作者不在で出来上がった「都市」というアート作品は、おのずと生と死のはざまのグラデーションをすべて含んだ器のように機能しているのだ。そのことを思って、人為的なものをあらゆる意味でやすやすと凌駕していく自然の巨大さ、そして残酷なまでの人間味の無さにしばしおののく。神というものがあるとすれば、それはこの自然の仕組みそのものではないのか、などと考える。
発明家ミサンガはアボカドを挟んだパンを3つ喰い、私はよく冷えた珈琲牛乳をすすって暑さをやり過した。眠ることによって絵が描けるアプリの開発話などを聞くうちに、太陽が西に落ちて、神の泉の天命反転地にまた新しい夜が訪れる。