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小説という肉体、抱擁のために

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「小説」は現実の世界に足を踏みしめながら楽しむことのできるフィクション、だと思っている人も多い。

 

「小説」は物語で、謎解きで、歴史や世界を教えてくれる情報源。感動の装置。

世間では、広くそのように考えられているように思う。

 

この現実世界を構成する1つの事象、要素、趣味として楽しむ対象物。

野球やサッカー、ラーメンや雪見だいふく

極端に言えば、「小説」はそういうものと同列に位置づけられているような気がする。

(世界を構成する一部であって全部ではない、という点において同列、という意味である)

 

けれど、実際に自分で小説を書いてみて思ったのは、小説はそれを書いている世界を含むもう1つの世界であり、小説こそが「現実」である、ということだ。

 

たとえば、小説を書いていると、その中には遠近が生まれ、時間軸が生まれ、それらを掛け合わせることで運動性が生まれる。

 

動かそうとしなくても、しっかりと作れば、「小説」という構造物は自発的に動き出す。

 

この場合の「自発的に動き出す」というのは、例えばある登場人物を描いたら、作者の意図をはみ出して勝手にセリフや筋書きが出来上がる、というような創作上の「運動性」「自発性」のことを言っているのではない。

(「アイディアが降りてくる」とか「キャラクターが動き出す」とか、創作における紋切り型のセオリーを言葉の表層的な意味でしか授受できなくなっている人は、そういう話をしているわけではないので、注意深く読んで欲しい)

 

そうではなくて、小説が現実を文章で写し取り、デフォルメした模型、というような生易しいものではなくて、そもそも空気中に散漫に溶けている「現実」をしっかりと抱きしめるためには、小説のようなフォーマット(器)が必要で、そこに流し込んで初めて、私たちは「現実」の色合いや質感や重量などを測ることができるし、そもそも「現実は存在するのか」という事実そのものを確かめる方法は小説でしかありえないのではないか、とさえ考えるのである。

 

生きていて、この生きていることを確かめることは不可能だ。

自分の顔を自分で見ることができないのと同じように、生きているということを確かめるには、生きているもう一人の自分を連れてくる必要がある。

手鏡や写真やビデオカメラで、間接的に自分のすがたを確かめて、ああ自分は存在している、ここに生きているのだ、と思い込むことはできる。

同じように、過去の記憶や現在にまつわる情報を寄せ集めて、「生きている」ような気分の中を私たちは生きている。

自分ひとりでは心細くて多くの人と一緒になって、「生きている」ムードを共有することで安堵している。

けれど逆に言えば、それは単なる「気分」であって「生きていることそのもの」ではない。

だから人はときどき、不安になるのだと思う。

自分が生きているという、その根源的な事実を確かめることができないのだから。

その状況は冷静になると、あまりにも恐ろしい。

それに気づけない鈍感な人ほど、心に余裕をもって生き永らえることができるのだろう。

 

では「生きていることそのもの」とは一体どこに存在するのか。

どうやったらそれに触れることができるのか。

そのひとつの答えとして、私は「小説を書くこと」を提案したい。

読む、のではなくて、書くことが重要である。

書くことによって初めて、「自分が生きていること」がわかる。

「小説」の中に生まれた世界が、小説を書いている自分のいる世界を浮かび上がらせてくれる。

生きている自分を見つめるための、もうひとりの生きている自分。

そのもうひとりを小説という肉体に宿すのだ。

 

小説を書くことで、そういうことが可能になる。

生きていることへの感謝が生まれるとか、人生の素晴らしさを実感するとか、そんな表層的で道徳的な効能を謳っているわけではない。

ただ、自分がたしかに生きていること。

その命の手触りを抱きしめることのほかに、人が救われることなんてあるだろうか。

書きながら、そんなことを考えていた。