この人も私と同じように、靴下をはいたり、歯を磨いたり、だれかと待ち合わせをしたりしながら生きているのだろうか。
食パンを焼きすぎたり、傘を忘れたり、ああなんか今日の髪型はイマイチ、とかそんなことを考えたりするんだろうか。
するんだろうな。
おそらく。
日常生活における行動様式の差異なんて俯瞰すればごく微々たるもので、最果タヒさんというこの人もまた、私やほかの人と同じように衣食住の枠組みの中で人間らしく生活を送っているのだろう。
けれど、そう分かってはいてもまだ私は、この人の存在がまるでフィクションに思えてしまう。
何かの間違いのように、夢でも見ているように感じてしまう。
閉じていた瞼を開いたら、はい夢でした、と誰かに言われるんじゃないかと、ちょっと怖くなってしまう。
だってこの人、天才だから。
天才的な文章、に出会っても。
この人は天才だったんだろうという死んだ人間の名前を知ることはあっても。
こうして自分の人生の中でリアルタイムで「生きた天才」に出会うことって実は奇跡に近いんじゃないだろうか。
最果タヒさんの詩集を初めて手にした時。
私はまるで地動説の終わりを宣言されたみたいだった。
見えている景色は変わらないのに、これまでの大前提がくつがえってしまう。
それは清々しいショックだった。
ああ、ここで世界は終わって、また新しく始まるんだな。
最果タヒの詩をおりなす言葉たち。
その組み合わせ。
語られる内容は、まだ埋まっていない世界を言葉で描出しながら、同時にまだ語られていない世界をふわりと示唆する。
それらをアウトプットする最果タヒという未知のOSの前に、私は観念した。
自分が得意になって使いこなしていたPCが突然古臭く、恥ずかしいものに思われて、思わず自分の言葉をすべてしまいこんで沈黙した。
「君の言い訳は最高の芸術」はエッセイ集、となっている。
けれど実際は、最果タヒの作品、と呼ぶ以外ふさわしい呼び名が見つからない。
そのくらい、この人の紡ぐものたちには、エッセイだとか詩だとかそういう区分けが似合わない。
だって天才なのだもの。
天才のために。
私たちはその作品を語るための新しい呼び名を発明すべきで。
そして、そんなことくらいでしか天才への畏怖を表すことができない。