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「巨大な雨の読書会」、その1

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名付けることは、存在の片棒を担ぐことでもある。

名を与えられた物は、者は、ものは、ものたちは。

おそらく自らの呼び名の来歴を知りたがるであろうし、仮に問うて名付けの由来について何がしかの回答を得たとすれば、繰り返しその中身を参照しつつ、生きていくのが自然なことだろうと思う。

 

それがゆえに名付け親というのは、産み落とすことをまた別の角度から行い、誕生したる不案内な魂がふいに命の文脈の網の目から転がり落ちて迷わぬよう、しかと座席に固定する。安全ベルトをしつらえる。

そんな役割を担っているように思う。

 

薄暗い土がぬかるみ続ける地上にて、今日も秋は営まれている。

 

名付けについてふと考えるに至ったのは、新しく読書会を始めるにあたり、その名を用意したことによる。

 

巨大な雨の読書会、というのがその名だ。

 

いったいどういう意味なのですか、という疑問の発生を良しとし、滞在先の古民家にて私が執り行うであろう読書会の呼び名として、早速これを広告した。

 

不可解な言葉の組み合わせに疑問符は付き物であり、私のような人間はその誤解によって生かされているふしがある。 

 

誤解は人を魅了して、燃料を足さずとも走る車のごとく便利だ。

大いに誤解を使いながら生きていこう。常常そのように思っている。

生じた疑問符について申し開きのように説明を付け足すことは、だから非常に野暮で無粋なことである。

そのように私は考え、名付けたきり、「巨大な雨の読書会」についても平静のごとくに説明を控えていた。

 

ところが名付け終えて明くる日、親愛なる人が私に問うた。

いったいどういう了見で、この名を与えて澄ましているのかと。

聞かれるままに名付けた名の来歴と説明不足の因果をその人に答えると、それをそのまま広告しなさい。

そのように勧めてくる。

 

野暮を強いられるのはきらいです、と私が抗うとその人はさらに言う。

名付けの由来を広告すれば、誤解はもっと走るでしょう。

そうなって、困ることがあるのですか。

困るよりも潤うでしょう。つけたその名が光るでしょう。

 

たしかに私は困らないのであった。

何のことはない。

名付けた呼び名の来歴はそのまま私の思想そのものでもあるから、それを人前に晒して私事なる想いをいちいち見せびらかしている。

お調子者だと噂されることが、恐ろしいだけの話である。

 

名を得て道に迷わぬように、というのが親心であるならば、その名付けの工程について披露を惜しむ理由がどこにあろうか。

それでようやく、慣れぬことをしてみようという決心がついた。