限りあるもの。
それは、面白く、切なくて、愛おしい。
終わりや範囲が決まっていることで、その内側の内容物はそこからはみ出さんと煮え立ち、ひとりでに踊り、極まっていく。
「ここまで」と定める限界線の周りには、湖の岸辺にたえず水が打ち寄せるがごとく、言葉が泡立ち、想いが砕けて、いつもいつもとても賑やかだ。
限界の線引きがなされているもの。
たとえば命。
たとえば、心。
それから、この肉体も。
命の範囲をここまで、と定める境界線を私たちは「死」と呼ぶ。
そして、その境界線である「死」の周辺には、それを語る多くの言葉が生まれる。
やがて尽きる命のはしっこを想いながら、命の内側について私たちは心を動かし、とめどなくお喋りを続ける。
まだ見ぬ世界の終わりを想いながら、そこまでの距離を楽しいお喋りで埋め立てようと夜を更かして、長電話を繰り返す。
人の心の限界は、他人と出会った時に生じる。
間仕切りのない弁当箱のように、心の中の内容物が他人の心へと自動的に流れ込んだなら、もはや言葉も眼差しもあらゆるコミュニケーションはお払い箱になるだろう。
けれど、私たちの心は、それぞれが別々のお弁当箱。
蓋つきの、中の見えない、お弁当箱。
中身を教え合いたいのに上手くいかず、四苦八苦している。
小さなお弁当箱を抱えながら、その限界がもどかしくて、今日もコミュニケーションは泡立っている。
肉体はわかりやすい限界だ。
皮膚、という境界線が私たちの範囲をそれと分かるように視覚化している。どこからどこまでが私なのか。それを計りやすい。
私たちの肉体は、ほかの肉体に成りかわる事はできない。 肉体は、乗り物であり、牢獄であり、呪いのようにどうしようもなく私たち自身だ。そのせいなのだろうか。肉体は、ときどき、別の肉体と溶け合う瞬間を求める。
間仕切りをなくして、誰かの肉体とつながり、つかの間自分の輪郭線が見えなくなってしまうような、そういう瞬間を。
けれど、溶け合う時間を過ごすほどに、他人と自分とを分かつ境界線はありありとそそり立つ。
どんなにか泡立っても、水泡は破れて、もとの沈黙へと沈んでいく。
溶けたバターのように、誰かと合わさってしまいたい。
そんな事を考えて、けれど夏も終わるから、私はひとり言葉をかき混ぜ、また泡立たせている。