あんにょん。
目くじらを立てている人が南にいるというので、会いに行くとそれは事件。
巨大な海の生き物が、その人の瞳にぶすと突き刺さっている。
だいじょうぶなのですか。
くじらをなでなで触りながら私が質問すると、
あまりだいじょうぶではありませんよ、
とその人は答えて。
でもしかたがないのです。
困ったものだと空を見る。
すると刺さったくじらのしっぽの方が、それに合わせてぐいんと上を向く。
じつは来週妻が出所してくるものですから、目印を出しているんです。
彼女はぼたん泥棒の罪をゆるされて、百年ぶりに出てきます。
奥様はぼたん泥棒?
そうですよ。
あなた知らないのですか。
百年前、長野県諏訪市内で起こった「ぼたん三億個強奪事件」を。
はつみみですし,ぼたん三億個もいったい何に使うんでしょう。
私にはわかりそうもありません。
まあ若い人はそうでしょう。
今はミシンがありますから。服も丈夫に買えますから。当時と世相も違います。
私の妻は不器用でして、ぼたんがうまくつけられなくて。
不安に駆られたのでしょうね。
「このまま一生ぼたんがつかなかったら、いったい何を着て生きてゆけばいいのやら」
チャックがまだない時代でした。
だけど着物で生きるにはもう遅かった。
恐れた妻はぼたんを盗み、いまは刑務所暮らしです。
家族は百年待ちました。
目くじらを立てている人が悲しそうにうつむくと、くじらのしっぽが地面にあたって、その人はそれ以上、下を向くことができないようでした。