ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

ぼくは供物。

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お兄さんがもうだめだらうと言うので、僕はあきらめてしまいました。

今までのようにおもてを出歩いたり、お友達に会ったりすることもせず、昼間でも部屋を暗くして、鼻をほじったり、コップの水をぶくぶくと吹いて、あとは始終あおむけになって天井ばかりを見ています。

お姉さんはそのことで、お兄さん方を責めました。お医者さまにもみせないなんてっ、というお姉さんの金切り声が、この屋根裏部屋にまで聞こえてきたかと思うと、そのあと急に静かになって、優しいお姉さんの鳴く声がしくしく響いておりました。そうしてその後お姉さんは、二階の涼しい部屋に寝かされたのだと思います。暗くなるまで応接室でお兄さん方がひそひそと、おそらく僕のことでせう。相談ごとをしています。

 

僕はいったいどうなるのだらう。

静まり返ったお部屋の中でそんなことが気がかりで、じっと籠っていることがだんだん苦痛になりました。それで少しお兄さん方の相談に聞き耳をたててやらうと、女中のひとりを呼びました。

この僕の声はもうかすかなので、つまりは誰にも聞こえてなくて、それがいっそうつまりません。ですが、ちょうど二時間おきに水差しをもってやってくる女中の砂子が来たもので、おひ、おまへ。ぼくを居間まで運んでおくれ。そう言ってやると、砂子はびっくりしたように水差しを落として、ぶくぶく何かをわめきながら大階段を駆け下りて、どこかへ行ってしまいました。

 

ばかめ、なにをそんなに驚くことがあらうか。僕はすっかりあきれてしまい、水びたしになった木の床をしらけた気持ちで眺めます。すると、にわかに階下がさわがしく、おだやかでない声がします。いったい何のさわぎだらう。僕はもう下へ降りるのもあきらめてしまって、あいかわず涼しい籐編みの椅子の上に寝そべっておりましたが、やがて扉をどんどんと叩く音に、ぱっと面を上げました。見ると、僕の一番上のお兄さんが青ざめた顔で立っています。末のお兄さんとその双子のお兄さんが、あとからばらばらと追いつく格好。そしてその後ろには、さっき逃げるように部屋を飛び出していった砂子もぶるぶる体を震わしながら、たくましいお兄さんたちの背中の影に隠れるように僕のほうを見ています。

よし、今日こそ覚悟をきめた。ここは長男がけじめをつけやうぢゃありませんか。一番上のお兄さんはほかのお兄さん方にそう言うと、砂子に合図を送ります。砂子はぼんやり動きません。お兄さん方の顔を眺めまわして、これはいったい何のさわぎでせう。僕が不思議そうに首をかしげますと、末のお兄さんが砂子からひったくるように、その手にあった銀のお盆を取り上げて、「はやうはやう」と急き立てます。一番上のお兄さんは、盆にのせられた小鉢と箸を取り上げて、あっと声を漏らします。

これはいけない。薬味ばかりだ。肝心のつゆがないようだ。お兄さんはそう言いながら、長いお箸で小鉢を混ぜて、ぐるぐるおつゆを探します。ほかのみんなも青ざめて、こちらをそっと見つめます。

ちょうどおつゆを切らしてますが、お醤油だったらござひます。けしからぬ女中はそう言うと、お醤油瓶を取り出して、葱や胡麻の入ったガラスの鉢にどぼどぼ下品に注ぎます。お兄さんはうなずいて、気を取り直したのかこう言います。うまく喰うための算段は、かえってよくないことだらう。英雄みたいに声を張り、お箸が僕をつかみます。薬味と醤油をまぶされて、おいしい匂いがしてきます。僕は喰われてしまふのだ。こんな体であるために。お兄さんの歯が近づいて、そろそろ観念した頃です。

 

その子は蕎麦ではありません! 

わたしの可愛い弟です!

 

面やつれした菩薩さま。

そう輝いて見えたのは、寝ているはずのお姉さん。僕の体は喰われる前に、どうやら救われたのでせう。お前は黙って寝ていろと邪険にふるまう長男を、お姉さんはぶちました。お兄さんの歯が抜けました。何てお馬鹿をなさるのですか、弟を箸で喰うなんて。そもそもこれはあなたの呪い、うどんを粗末にしたせいです。

事情を知らないみなさんは、そこで初めて知りました。

一番上のお兄さんがこの夏出かけた四国旅。お兄さんは喰いました。讃岐名物わんこうどん。ずるずるお椀を空にして、あげくの果てに言いました。やはり蕎麦には叶わない。かういうものは好きぢゃない。讃岐を守る神様は、うどんが好きな神様で、お兄さんの呟きをけしからぬことと決めました。それで呪いがやってきて、弟の僕が犠牲者に。

お姉さんの話が終わると、お兄さんを見る目は変わり、長男風もやみました。僕は体を洗われて、呪いがとけるその日まで、腐らずカビずにいるように、涼しい場所で過ごします。