ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

男、はじめました。

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梅野さやかさんはつい最近、暦が春へと移ったのをきっかけに煙草をやめて、かわりに男と寝ることをはじめました。

 

はじめたばかりのころはジッポライターの油の香りやマルボロメンソールライトの美しい翡翠色のパッケージが恋しくて恋しくてたまりませんでしたが、春先の男たちというのは麝香や白檀にも似たとても良い匂いをさせていますし、火をつけなくても抱きしめればいつまででも温かく大きく広々とした背中の、馬の毛並みのようになめらかな皮膚の手触りなどが、すっかり梅野さやかさんの気難しい性格にもお気に召して、翡翠のかわりに琥珀色の男たちの黒目をのぞきこみ、たちまちに春のひと月がすぎてしまったのがつい昨日までのお話です。

 

そんな折のある日のこと。

五月雨ろく男さんが近畿地方からやってきました。

 

ろく男さんというのは梅野さやかさんが昔たびたび寝ていた男で、お互いにこいびと関係だと信じたような月日もあったにはあったのですが、いまは若かりし日の苦々しい過ちの生き証人として、できれば早くに死んでほしいと両想いに強く思い合う、そういう因果な仲なのでした。

 

信販売用の茶碗蒸しの営業でろく男さんが東京駅に降り立ったときにも、梅野さやかさんは煙草のかわりに手近な男と寝ることを継続している真っ最中でしたから、ろく男さんと連れ込みホテルで一夜を過ごし、宿泊料を割り勘にして別れたあとも特に何とも考えず、しばらくぼやぼや生きました。

むかしなじみというせいか、いともあっさり事は済み、有害物質の接種から、今日も自由になれたのだ。梅野さやかさんはそのように、昔なじみとの一晩を感心しながら忘れました。

 

へんになったのは初夏からです。

 

そうじがうまい無職の青年と、性格の悪い内科医と、あまりこれといって特長のない居酒屋の店長の3人を、日替わりで部屋に呼び、部屋をたずね、さやかさんはその定番のローテーションにも少し飽きてきた時期でした。

そうじに比べるとセックスはそこそこの腕前、という無職の男の子の浅黒い腕に枕されながら、梅野さやかさんは、なんだかへん、とつぶやきました。

 

へんて、なにが。

 

男の子はさやかさんの頭蓋骨につぶされている腕のしびれに耐えながら、つとめてやさしく聞きました。

 

あんたといるのがすごくへん。

 

洋服と荷物と男の子を玄関の外へ放り出すと、さやかさんは五月雨ろく男の携帯電話にぷるぷる電話をかけました。

何度かけてもつながらず、しかたないと思ったさやかさんは、なんだかへんなの、すごくへん。留守番電話の機械に向かって伝言だけを入れました。

 

そろそろだろうと思ったよ。

 

折り返しの電話がかかってきたのは、それから三日後の午前二時。

五月雨ろく男は何もかもわかっていたという口ぶりで用件をたずねました。

がまんができなくなってるみたい。

いますぐ会って、したいのよ。

さやかさんがそう訴えると、ろく男さんはおそらく近畿地方のどこか、受話器のむこうでおかしそうに笑って、たばこでも吸いなさいよ、おちつくから。そう言って電話を切りました。

そこでようやく、さやかさんは忽然と煙草のことを思い出したのです。

かつて、五月雨ろく男を忘れるために、煙草を吸おうと決めた、あの日のことを。

何年と禁煙できていた人が、ある日ふと吸った一本のたばこで、たちまち元の大煙草飲みに逆戻り、というのはよく聞く話ですが、さやかさんはようやく自分の状況にはたと気が付いたのでした。

あたしはあいつに中毒してた。それをようやく断てたのに。

うっかり一本吸ってしまった。

何よりたちが悪いのに。

 

からだがもう、五月雨ろく男のことしか考えられなくなっていることに、さやかさんはどんどん青ざめて、飲みかけの焼酎の瓶をラッパのみにして喉を潤すと、小銭をにぎりしめて深夜のコンビニへと走り出しました。

 

その日以来、梅野さやかさんはまた元のチェインスモーカーに逆戻りです。

マルボロメンソールライトは、セブンスターに変わり、さやかさんの顔の色つやは以前より若干悪くなりましたが、煙草を吸っているときだけは、へん、にならなくてすみますので、医師の処方箋もいらず、おかげでずいぶん日常生活が助かっているというお話です。