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ファンタジーについて。

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ここに記すのはファンタジーについての記録だ。私の人生とそこに出てくる登場人物たちを飲み込んでいるファンタジーについて。その記録。備忘録。不正確かもしれない幾つかの出来事についてのごく個人的な私の感想と意見。分析のための分析。忘れないために幾つかの考えを削除し、いくつかの考えを取り置いて残すこと。

 

ファンタジーとは何か、あなたはご存知だろうか。それは頭の中の避難梯子だ。登る前と、終わりまで登りつめた後では、目に見える世界が確実にすっかり違っている。それがファンタジー。視点を移動するための避難梯子。

私以外の多くの人はその梯子を登る前と、登りきった後、その二種類の景色しか知らないんじゃないだろうか。あるいは梯子の存在自体に無知なまま、せいぜい数メートルかそこらの物理的な目線の上下のうちに一生を終えるのではないだろうか。時々私はそんな風に考える。そしてむしろその方が自然なことだとも思う。

なぜならその梯子には高さというものがないから。方向というものがないから。登り切るまでの時間も体力も必要としないから。

 

梯子はただただ、そこにある。

手を触れることのできない頭の中の暗闇にそっと音もなく立てかけてある。はじめから終わりまで。時々は見えて、時々は見えない。そして、梯子を登る前と登りきった後。ファンタジーはそれらを分け隔て、そして同時に結びつけている。

私が試みようとするのは、ファンタジーそのものについて考えることだ。いや、思い出すと言う方がこの場合正しいのかもしれない。ファンタジーの目的や機能やその結果ではなく、ファンタジーという緩衝地帯のグラデーションをここに記してみること。

 

そう。グラデーション。ひとつひとつの異なる段階。その段階に応じて変わる世界の色味。それらを目に見えるまま、どこまでも丁寧にここに転写していく。

もしもファンタジーという言葉がこれを読むあなたに多少の混乱をもたらすのなら、それを何か別のものに置き換えてもらってもかまわない。雨傘でも、スリッパでも、冷蔵庫の中の野菜ジュースか何かでも。さっきから私が繰り返している避難梯子。それが一番いい例えだと思って持ち出してきたわけだけれど、それでは色気がないというなら、例えなんて何だってかまわない。

私は雨傘について、スリッパについて、冷蔵庫の中の野菜ジュースについて、ここに記録しようとしている。それらは存在することで結果的に2つの世界を生み出し、それ以前とそれ以後とでは世界はまったく違って見える。

やはりこの方がわかりやすいのかもしれない。単純な響き。回りくどくない。ファンタジーなどという曖昧で意味のない単語を持ち出してくるよりも。そう、この世界の多くのものは整理され、名付けられ、わかりやすく並んでいる。どこだってそうだ。「あ」から始まり「ん」で終わる。それが普通で平均で常識なのだ。いちばん効率的だとされるやり方。

しかしわかりやすいもの、単純なもの、すでに形あるものについて、改めて私が記録する必要などない。誰もがすぐに「あれのことか」と頭に浮かぶ事柄をこの手でなぞること。反復すること。確認すること。それらはまったくもって必要がない。悲しいくらい私には必要がないのだ。

 

だからやはり、これは「ファンタジーの記録」でいいのだと思う。あなたは混乱したまま、避難梯子の始まりでもなく、終わりでもない場所から見える眺めを写した私の言葉たちを落ち葉のように拾い集める。おそらくむずかしいことではないと思う。それは私があなたたちの世界を知ったのと、たぶん同じやり方だから。