ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

紙の家

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離縁をするにあたり、いろいろと新しくものを知る機会を得たのが、この若芽どきの収穫と言えば収穫なのでした。

五月雨式に片付けごとは増えてゆくのに、かえってぽかんと頭の中身を動かせないでいるような、そんな時間も多いもので、どんどん自分が底なしに後戻りのできないおばかさんになっていくような、そんなおそろしい予感が兆し、けれどもそれにぜんぜん抗うことができないというのもまた、ままならず苦しい心地だというのをからだで知ったような気がいたします。

そんなふうにして、戸籍、というものをどうするのか、というご相談を区役所の間仕切りの内側でひそひそと交わしたのは、つい先日のことなのでした。

先の男とふたりで作った戸籍というのは家のようなもので、そこから妻を辞めて出ていくだけでは不十分なのだ、と窓口の内藤さんは笑いもせずにおっしゃるのです。

戸籍という家を出たままで、漂流者にはなれません。 もといた親御の戸籍に戻るか、ご自分だけの新しい戸籍を作るか、そのいずれかを選ばなくては。

選ばなくては?

漂流者でなく、迷子です。

迷子のままで生きるには、あなたはすでに古いでしょう。

迷子はもっとぴかぴかと、せめて瞳は新しい。

そう言われると言葉もなくて、わたしは迷子をあきらめます。

親たちが作った紙の家。かつては住んだ親の家。

離縁のしるしをたずさえて、そこへ再び名を連ねるか。 それともひとりで新しく、白紙の家に住まうのか。

どちらも同じく感じが悪く、漂流したくもできぬ不便。

この戸籍制度というものは、 古代より存続する、まじないや呪術のなれの果てだと、どなたでしたか、かしこい方がおっしゃるのを聞いたことがありますが、 何かもっとちょうど良く、どうにかならないものなのか。

かさばる書類をかばんにしまい、とぼとぼメトロで泣きました。

私はちかごろよく泣きます。みちばたや非常階段で、商店街でも泣くのです。

泣く理由ならば困りません。

売るほどたくさんあるのです。

かねてより居座りつづけた居候先もついに追い出され、 もう雨宿りすらできぬこと。

たよりにしていた親切な人が、そろそろ私に飽きはじめたこと。

やがてうつうつとした長雨がこの緑の国を覆うころ、わたしは、古くてさみしい共同便所の木造住居に住まうでしょう。

あたらしい紙の家に自分ひとりの名をしるして。

腐りかけた木の家の黴くさい水を使って、すがるような気持ちで湯を沸かすのでしょう。

家がないのもまた楽し。

そのように思えていたのは、もうずいぶんと昔の話です。

いまはどなたか布団に入れて、膨らんだ綿の輪郭を手のひらで淡く撫でながら、それを仮の住まいだと思いたい。

そんな弱気も起こるのです。

妻をやめることと、ひとりぼっちになること、そして生きる事の心細さ。それらは確かに違うはずなのに、 紙の家を出たあとのおのれの名前の行く先に、ふと立ちすくみ、またぽかん。

どんどん阿呆な女になって、ふとももをつたう汗の玉を、目を閉じて皮膚でしばし追いかけながら、かゆい、とつぶやくせいいっぱい。

そう。

それだけでもう、その日を生きるということが、たしかにせいいっぱいのことなのでした。