ようこそ人類、ここは地図。

2月5日、ユミのブログ。

葛藤を終える。その自由にメルシー。

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生きる事はよく分からない。

その分からなさを時に心地よく、時に心地悪く、味わう事。

それが人の姿形と魂をもって、この世に在ることの醍醐味なのかもしれない。

 

半年ほど前まで、自分の生命や肉体や魂までも、「生活の安定」だとか「将来」といった漠たる観念のために、幾らでも擦り減らし、使い倒し、あたかも道具のように酷使してよい。使い潰してよい。投げ売ってもよい。

そう思っていた。

 

何かを怖れることがいつも正しく、楽しむことは「脱線」にすぎない。

そんな考えばかり、自動的にいつも浮かんだ。

 

人生は手詰まりで、私の生きる道に沿って伸びる、長い長いひとすじの牢獄だけがそこにあった。生きる喜び、といった感覚は実体を持たないキーワードに過ぎず、私自身からは遠く切り離されていた。

何かをしたい、という願望はなく、しいて言うならば「何もしたくない」というのが唯一の望みであり、疲弊した私の心から絞り出された切実で決死のリクエストでもあった。

 

居候先で、伏せてばかりいた。

私が床に顔をつけてぐずぐずと過ごす間に、季節は春から初夏に変わって、ベランダに立つと視界には眩しい野生の緑が溢れていた。

呼び名を知らない花びらですら薄紅色に淡く華やいで、自分だけが惨めにくすぶっているような感覚にとらわれた。

一週間のうち一日だけ、寝巻きのままで外に出て、道端の雑草にスマホを向けてシャッターを切り、暇をつぶした。

過去も未来もない。ただ、今だけが存在している。

そういう場所に行きたいと、ただ願った。

 

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「仕事には2種類あって、ひとつは生きていくために、お金を得る仕事。

もうひとつは、人間として為すべきことを為す、お金とは切り離された仕事。」

 

その2つの両立が必要だと思ってやってきたけれど、私にはもうこれ以上は続けられないのです。

人間として果たすべき仕事に手がつかないままで、生きているのが苦しいのです。

 

人にそう訴えたら、

「あなたって濃すぎるカルピスみたい」と笑われた。

 

濃すぎて、どうやっても外にあふれちゃうのね。

両立なんて、器用な事はあきらめて、やりたい事をおやりなさいよ。

既定路線なんて、むりなのよ。

ねえ、いま、ちゃんと呼吸できてる?

なんだかとっても苦しそう。

さっさと見切りをつけないと、

そのうち息が止まって、死んじゃうわよぅ。

 

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魂に死亡フラグを立てられてから3ヶ月が経過した現在も、私はまだ生きている。

その間、頭より先に体が動いて私は漂流し、もはや巨大な記憶の塊としてしか取り出せぬほどに、日々、世界観を塗り替えられるような出来事が続いた。

家出をし、見知らぬ土地をさまよって、新しい人たちを知った。

 

「お金がなくては、生きていけない」

 

子どもでも知っている、常識的なこのフレーズ。

それを胸にこの10年ほど、そう信じて、そう思おうとして、がんばってきたけれど。

 

どうやら私には、別のキャッチコピーが必要らしい。

もう努力しなければ出来ない生き方に、心血を注ぐのはやめた。

飽き飽きしている場所に、愛想笑いをして留まるのはやめた。

 

「人間としての仕事をしていれば、私はきっと生かされていく」

 

この自分の思う道を、すでに軽やかに明るく生きている人を私は知った。

新しい他人との出会いは、新しい自分を連れてくる。

煮詰まっていた私の心は、出会ったばかりの人の横顔や、流す汗や、投げられた言葉たちによって、すっきりと居心地悪く、晴れ渡ってしまった。

 

葛藤は与えられた自由。

そして、葛藤を終えることもまた、与えられた自由。過去は、未来は、どうあってもいい。

この胸にある生きることの「分からなさ」への興味が、私のよるべない魂をきっとどこかに運んでいくだろうと思う。f:id:niga2i2ka:20170830213237j:plain