大英帝国を差し置いて、どうして青森だったのか。
青森に興味を持ったきっかけは2つあった。
1つ目は津軽半島にある金木(かねぎ)という土地だ。
ここは作家・太宰治の生まれ故郷で、今でも生家の建物が残っている。
一応、前置きしておくと私は太宰治の大ファンというわけではない。
思春期を太宰に救われた記憶もないし、桜桃忌が近づいてきても特に気にしない。
(太宰治の良さがしみじみと染みてきたのは、20代の終わりごろにぽつぽつ本を読み出してからだと思う)
好きな太宰作品は沢山あるし、魅力ある作家だとは思う。
けれど、
「とにかく太宰が好きで好きでたまらくて心酔してます、ほんと生まれきてすみません!」
みたいな、そういう「どっぷり感」は一切ない。
それならどうして太宰治の生家を訪ねて、私は青森まで行くのだろう。
自分でもなぜ、と思って考えてみる。
すると、
フィクションとしての「太宰治」。
生身の生活人としての「太宰治」。
その2つの太宰を反復することで浮かび上がる何かを見たい。
そんな思いがあることに気づく。
作品を読んだことがなくても、「太宰治」の名前を知らない人はあまりいないだろう。
「人間失格」といった作品名から連想される、シリアスで取っつきにくい雰囲気。
その雰囲気だけで十分に「文学」の記号として機能しうるのが太宰治という作家だと思う。
「太宰治」の記号性や文学というジャンルにおけるポップ・アイコン的な祭られ方が私には面白く、そして作品・「太宰治」が今現在どのように鑑賞され、そしてその存在が更新され続けているのか。
私はその「現場」に立会いたい。
そんなことを思っているようだ。
(一昨年、東京三鷹にある『太宰治文学サロン』を取材した時に、そこにいるボランティア・スタッフの方がまるでリアルタイムで生きている近所の有名人を噂するような身近さで太宰エピソードを話す様子がとても面白く、「太宰治を語る人たち」ともっと話してみたい、と思うきっかけになった)
太宰は作品を通じて作られた彼の「虚像」で人気を博し、その「実像」で愛される作家なのだと思う。
虚像の出来栄えが見事であればある程、その舞台裏の素顔に触れた時の意外性や「発見した感」というのは大きく、読者はその落差も含めて、なお一層彼に魅了される。
そういう仕組みを目の当たりにする時、心の中は面白く、また不思議な味わいがある。
芸術が時の洗礼を経てエンタメ性を獲得していく。
それはやはり太宰治その人だからこそ可能な、バージョンアップの形だったのだろうとつくづく思う。
実際に訪れた青森県五所川原市・金木町で、私は太宰治の生家『斜陽館』と第二次大戦中に太宰が疎開していた時に使っていた離れ『疎開の家』を訪れた。
『斜陽館』はどちらかというと観光色が強く、明治期の木造建築の佇まいを味わうといった向きであったが、その斜陽館から少し離れた場所にある『疎開の家』。
ここは今なお太宰治の気配がそこかしこに息づく、まるでパワースポットのような厳かな力を感じる場所であった。
実際に疎開中に太宰が執筆していたという書斎の一室の座布団に座らせてもらい、『疎開の家』の管理人さんと言葉を交わす。
太宰が家業や肉親に抱いていた思い。
作品に滲む彼の優しさと葛藤。
新潮文庫の太宰の短編集を片手に、管理人の方は「フィクション『太宰治』の一人歩きが裏目に出て、本人の人柄が日の目を見ない場面に居合わせると悲しい」のだと、太宰愛を煙のようにくゆらせる。
丁寧な所作でめくられる文庫本のページには、たくさんの付箋が挟まっている。
私が、音色の異なる楽器を使い分けるように、作品ごとにふさわしい筆使いのできる作家であったという意味で、太宰を「器用な人だと思います」と所感を述べると、その「器用」という言葉に反射的に出たのであろう、「けれど彼の人間は不器用ですからね」とすかさず擁護の言葉がかぶさってくる。
前のめりだ。
この人は前のめりに、太宰の「実像」を愛しているのだ。
ここにも太宰治の虚と実を行き交う、激しい往来がある。
ふつ、と喜びに似た感情が胸に込み上げる。
ここに来てよかったと思いながら、私は再び津軽鉄道に乗り込み、彼の人の故郷を後にした。