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2月5日、ユミのブログ。

20年間のドライブ、私たちの廃墟へ。

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週末を利用して、弟と夫と三人で茨城へとドライブをした。

かつて父だった人とその新しい家族、そして私たち姉弟の祖母が暮らす田舎の家を訪ねるためだ。


父と会うのは数年ぶりのことで、4年前に夫となった相手を引き合わせることに私はあまり気乗りがしなかったが、今回は祖母の顔を見たい気持ちの方がまさって、こういうことになった。来年にはもう90歳になるという祖母の齢を考えると、このまま会えないでお別れがきてしまうのでは、という焦りもあった。少し前にカメラを失くしていたので、私は仕事帰りに量販店を回り、新しい型のカメラを用意した。

その土曜日はよく晴れていた。
開通したばかりだという栃木と茨城とを東西につなぐ高速道路から車が一般道に入ると、同じ北関東に分類される土地にしては、その空気がどこか違って見えた。どちらも同じくらい田舎で、似たような種類の閑散とした景色。それなのに不思議だ。車の窓ガラスに額を押し付けもたれながら、なぜだろうかと考える。
理由はすぐにわかった。私たちを乗せた車はもうずいぶんと海に近い場所を走っていたのだ。


私が育った栃木県には海がない。潮風の運ぶ、あの海の香りがまるでない。群生する木々の面立ちも波打ち際とではかなり違っている。そういうことか。助手席に座ったまま視線を上げると、日立港まで何メートル、という道路標識が見えた。

それからしばらく走ると、前方に見覚えのある昭和シェルのガソリンスタンドが見えて、隣に色褪せたボウリング場の建物が並んでいるのが目に入る。巨大なボウリングのピンが二階建ての建物よりも高くそびえていて、いやでも目を引く。しかし、そのふたつの建物の壁面はかさぶたのように大部分が剥がれ落ちていて、それがもう使われていない牧歌的な廃墟であることを知らせている。


ねえ、あたしこの昭和シェル知ってる。このボウリング場知ってる。この道よく通ったもん。
運転席の弟にでも後部座席の夫にでもなく、私はひとり興奮気味に声を上げる。海で遊んだ帰りに、よく父の車で通っていた懐かしい景色。その面影がまだはっきりと残っていた。

やがて、祖母の家に向かう曲がりくねった道に入る。近くまで散歩に来ても、子どもだった私たちは怖くて絶対に足を踏み入れなかった崖みたいに急な下り坂。その坂を左に見てカーブを右へ曲がる。もうすぐばあちゃんの家が見えてくるんだ。幼い頃に記憶していた順路が、微細な変化を遂げた姿で次々に現れる。私は現実の景色に記憶の中の映像を重ね、その過不足のない完成フィルムを上映しながら、窓の外に向かって何度も何度もカメラのシャッターを切る。移動する車窓からは、流れるように乱れた写真しか撮れないと分かりながら。
舗装されたアスファルトの道に蓋をするように繁っている大量の樹木。
うわ、ここぜんぜん変わってない、と弟が驚く。


見覚えのある、思い出として何度も眺め回した丘の上に祖母の家が見えて、かつては父が運転する赤い車でがったんごっとん揺れながら這い上がった急な砂利道を、いまは髭をはやした弟のハンドルさばきで私たちは、奥へ奥へ斜面をつき進む。

もうずっと昔に私の父だった人。そして、今でも「お父さん」と、その呼び名でしか呼べない人。その人がいつものジャージ姿で出てくると、私たちは友達のように挨拶を交わす。よう、どうだ元気だったか。まあね。そっちも元気そうじゃん。あ、この人、これ、あたしの旦那。やあ、どうも。はじめまして。昼飯にしよう。腹が減ったよ。
挨拶をすませ、祖母の家の三和土にブーツを脱いで、お邪魔しますと口にする。静かだ。ばあちゃん、と呼びながら家に上がる。茶の間に祖母が座っている。ばあちゃんだ。あの頃よりもずっと年をとっている。私はその姿を見れただけで、もう十分だと思う。

父の新しい家族はそれぞれの所用で不在であった。
もしくはそういう日があえて選ばれたのかもしれなかったが。


私も弟もそして夫も、それを知ってずいぶんと気が楽になった。もしそれが父の意図的なはからいであったのならば、私たちにとってそれ以上気の利いた「おもてなし」はなかった。こいつらは誰なのだと不審そうに見られることも、気まずい挨拶を交わし遠慮することもない。今日の私は、娘であり、孫であり、姉であり、妻である。人物相関図のどこを探しても、私を疎ましく憎む人間は決して見つからない。私の連れ合いである夫にとっても弟にとっても、それは同じことだった。
20年分古くなり、小さくなった祖母は、懐かしく耳になじんだ茨城なまりのあの声で私の名を呼び、花嫁装束を身につけている数年前の婚礼の写真に目を細める。娘とその結婚相手の男に向かって、どうもおめでとうございます、と父が言う。

出前のチゲ鍋うどんが届いて午餐となり、引き続き父の司会によって各自が近況報告をすませ、私たちは敷地の中にある先祖の墓参りに出かける。子どもの頃は山ひとつ越えなければたどり着かなかったはずの墓場があまりにも至近距離にあり、記憶との落差に姉弟そろって愕然とする。
あれが柿の木で、栗の木で、あのへんに生える筍はけっこう美味いんだ。
父が庭を案内する。もう葉の落ちた木々の中に、晩秋の色彩が日没を受けて輝いている。父と弟と、私の夫と。三人の男たちが秋から冬への渡り廊下をぶらつきながら、何でもない話をして、それぞれの人生を出逢わせている。

もっと気まずくて、もっとぎこちなくて、すぐにでも帰りたくなるような、そんな雰囲気を思い描いてやって来たのに、やはりそこは何度となく夏休みを過ごした私の「ばあちゃんち」で、いまは父の新しい家族のために多少の建て増しはなされているものの、じいちゃんの部屋に貼ってあった「宇宙戦艦ヤマト」のポスターも、たくさんのトロフィーやカップがしまわれたガラスの戸棚も、収穫した野菜が籠に入っている薄暗いお勝手も、フルマラソンを走る父のゼッケン姿の写真を大きく引き伸ばした額縁の並びも、全部が私の思い出の中にかつてあり、そして今もこの場所で続いていて、私のことを覚えてくれていたように、何も変わっていなかった。ばあちゃんは私のばあちゃんで、その事実は何も、何一つ、変わっていなかった。ばあちゃんは皺が増え、小さくなり、もはやその手料理を食べることはできなかったけれど、それでも笑い話をしようとしてこらえきれずに笑い、誰にでも蜜柑を勧め、こたつには入らず、染めなくてもいつまでも黒い髪を隠すように手ぬぐいをかぶっている。私にとって唯一のおばあちゃん。

私が少女をやめてから、もう何年がたつのだろう。
所帯を持ち、賃金労働で日銭を稼ぎ、高齢の祖母の死をまもなく起こる悲しい未来として恐れる程度のあたりまえの分別を身につけてはいるけれど、それでも華奢な置物みたいになったばあちゃんが冗談を言えば遠慮なくそれを笑い、聞きたいことを尋ね、何のわだかまりもなく、隣で蜜柑の皮をむいて、ゴミ箱にその皮を投げている。何も変わっていなかった。私が怯えていた巨大な変化など、そこには何一つ見つからなかった。
勝手にあると信じ込んでいた透明なしがらみと臆病風によって、私はここへやって来るのに、20年あまりも費やしてしまった。
けれど、その20年という時間が長かったのか短かったのかは、私にもよく分からない。

帰り道、高速に入る前に私たちは寄り道をした。
とある場所を目指して。
弟の銀色の車が海沿いの道を走る。窓を開けると冷たい風があっという間に皮膚を冷やす。すぐそばに引き締まった冬の海が、鉄色の薄い波をつくってところどころで持ち上げているのが見える。瀕死の生き物のように波は低く、海自体は決して動かずにいる。
東京からたった3時間足らずのこの場所までに、20年分のどんな障壁があったというのだろう。果たされてみればあまりにも簡単で、つまらないことのようにも思えてくる。


見えたよ、と運転席から弟の声が言う。
白い灯台と、そのふもとに広がる芝生の公園。
寒さのせいなのか人影はなく、風に煽られたブランコだけがさびしく揺れている。
かつてそこには真っ赤なタコを模したすべり台やいろいろな遊具がたくさんあった。夏休みに祖母の家を訪れるたびに、私たちは父に連れられて、この公園でよく遊んだ。勝手に「タコの公園」と名前をつけて親しんでいた。
何年か前、海が見たいと言う恋人を連れてドライブに来た弟は、偶然にもそこがかつて遊んだその場所だということを発見したという。
いま大部分の遊具は撤去されて、公園の主である赤いタコのすべり台は塗装がはげてファンシーな桃色へと変化してはいたが、間違いなくそこは、私たちの思い出の「タコの公園」だった。
防砂林のすぐ向こうに見える冬の海。
子ども用にしてはあまりに急なすべり台の斜面を登ってタコの頭の部分に立つと、私は眼下に海を見下ろしてみる。
クールベの描いた「秋の海」そのもののような、黒々と横たわる液状の大地。その中に、あまりにも繊細な白いしぶきが列をなして、陸地へ向かって動き、音もなく消えてゆくのが見える。
名も無き水泡の誕生と死。その儚さ。
それを見てしまったせいなのだろうか。
私の目は泣き、潮風の中に立ったまま、悲しみとも違う何かが幾度も幾度も込み上げてきては、行き場なく涙となって地面へと落下する。

人生はいつも絡み合い、こんなにも厄介な回り道をしなければ、ほどかれない忌々しい知恵の輪だ。そんなふうに私はいつも恨めしく思い、うんざりしながら生きるしかないのだと諦めていた。
けれど、このパズルは自力で解きほぐすものではなくて、いつか溶かされていくものなのだ。
車が走り出して、白い灯台がぐんぐん小さく見えなくなってしまう間、私はその姿をカメラのレンズ越しに振り返りながら、そう思っていた。
入り組んで錠のかかった人生のパズル。
自分の心の温度がそれを溶かしうる融点にまで近づいた時にはじめて、それはチョコレートのように一瞬で溶けて、柔らかな消失をとげる。わだかまった感情の棘も、悲しみに似た質量も。温かな体温の中になくなっていく。けれど、なくなったように見えて、実際はそうじゃない。私自身の一部として、これからも共に生きていくのだろう。
何かを許し、乗り越えるということは、そういうことなのだと私は初めて知った気がする。

母や私たちと別れた後に、父は南極以外の大陸で行われている世界のマラソンレースをすべて走破し、今も走ることを生き甲斐にして日々を暮らしている。家庭生活のことについてはどうやら相変わらずピントがうまく合わないらしい。そういう父もまた離れて眺めればとても面白い人間だ。父の偏った生き方を私たちは車の中で笑い飛ばし、過去をジョークに変えて、そして色々なことがもうすでに、ほろ苦い味わいとなって心に溶けていることに気がついていた。


車は闇の中をゆるやかな灯明となって走り、私は私の大切な廃墟をカメラに納め、そして私たちの暮らす現在地点へとやがて帰りついた。