どうして器や彫刻や、絵画、と呼ばれるものを人は愛でるのか。
合理性という観測地点から見れば、何の役に立つの、というその行為を人類史は延々と続けて、まだやっているのか。
ときどき、名画をそのプライスでしか鑑賞できぬ人に問われて、その人に何をどう説明するのがよいか、しないのがよいか、考えあぐねてふと黙る。
言葉への変換がひどくむずかしい感覚や感情。
あるいは、うまく言い表せない、他人への伝達方法が見つからないような、漠然と透明で、しかし自分の内側においてはありありと質量を感じられる「世界の手触り」のようなもの。
感覚未満の、さざなみが起こる直前の静まり返った湖面のような、かすかな予感をはらんだ、皮膚感覚。
「あ」と「い」の間の、どちらでもない、どちらでもある、そういう揺れを含んだ音。
そういう曖昧さや運動性を孕んだ情報を「効率的なコミュニケーション」はばっさり削除する。
ノイズと見なして、定型文は掬い取ることをしない。
「無駄のなさ」や「合理性」を優遇し続けるのが当たり前になると、私たちの世界は随分いびつな形に再構築されてしまうのではないだろうか。
時々そんなことを思って恐ろしくなる。
それは傍から見れば、色のない世界で生きているのと同じだ。
すでにある定型文だけでは、既存の言葉の組み合わせでは、私の心の中に確かに「ある」と感じるものを「ある」と証明できない。
「ある」ものが「ない」ことになってしまう世界では、息がどんどん苦しくなる。
それで時々ロジックやキーワードや定型文ではとても太刀打ちできないような、合理性の鋳型には落とし込めないような、巨大な夢の具象物、のようなものに触れたくなる、作りたくなる。
それは目に見えないから「ない」とされてしまうような色を、他の人にも見えるように、この世界に「あるよ」と教えることのできる証拠品だから。
だから巨大な彫刻と対峙した時に、圧倒されて言葉にならない感覚はとても正しい。
不快に感じるけれど目が離せない壁画の感想を、無理にひねり出す必要はない。
とりこぼされた世界の破片を、人間の手はちゃんと拾い集めながらバランスをとっている。合理性が極まるほどに、人間はそこから排除された魂の収拾作業をこつこつとやるだろう。
つまりは、そういうことなのだと思う。