人と人とが向き合うことは果たして良いことなのだろうか。
がっちり向き合うと壊れてしまう関係がある。
お互いの立ち位置をはっきりさせよう。
そう思って踏み出した途端、出口なき迷路に投げこまれてしまう。
そんな関係もある。
謎は解けて、犯人が定まり、善悪の色分けがくっきりとなされる。
すべてがそんな風にいくならば話は簡単だけれど、それはフィクションの中だけのお話。
実際の人生は、はじめから答えなど出ないようにできていて、だからこそ一時的な、その場しのぎの回答を、自信なく足元に書きつけながら、ひとまずは歩き続けていかなくてはならない。
パンくずを目印に森の奥へと進んでいったヘンゼルとグレーテルのように。
曖昧模糊とした人生の輪郭を定めようと、私たちは判然としないものたちに名を与え、ひとまずはその姿に安堵し、目の届かない場所へとしまいこもうとする。
それはまるで空気に色をつけようと試みるようなものだ。
生きることのよるべなさに抗う仕草。
それを私たちは無意識にやる。
だからこそ、その「よるべなさ」が人間の形をして現れるとき、出来事として降り注ぐ時、私たちはたじろぐ。迷う。
それがいったい何であるのか、言葉にもできず、ただ立ち尽くす。
そして思い出すのだ。
正解はない、というその事を。
人生というフィールドにはただ選択肢だけが転がっている。
どれを選んでも、その中に絶対など存在しないことだけが、ただ知らされている。
その仕組みを親切ととるか、不親切ととるか。
そんなものがどうしたと強気に払いのけるのか。
自分ならいったいどうだろうかと考える。