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アーティスト「2月5日」のブログ。

朝吹真理子『きことわ』 文学小説って情報じゃないよ。

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最近になって、2011年に芥川賞をとった朝吹真理子さんの「きことわ」という小説を読んだ。

 

いつまでも読み続けていられるような、にごりのない、透徹した文章世界に引き込まれ、切り取られた見知らぬ人の人生を、ほんの束の間生きて味わっているかのような心地で読み進んだ。

 

しかし、個人的にはとても深い満足感があった本作について各所のレビューなどを読んでみると、「中身がない」「作者の言いたいことがわからない」というような感想もあると知って複雑な気持ちに。(もちろん素晴らしいと絶賛しているレビューもある)

また、本作と芥川賞を同時受賞した西村賢太さんの「苦役列車」のほうが断然「伝わってくる」し、「面白い」とする意見もわりと散見された。

 

まあまあ確かに西村賢太は面白い。

「人間どんなにかっこつけたところで畜生風情と何が違うのだ」

そんな開き直りと同時に、「畜生が高潔に生きて何が悪い」という恨み節のポーズを喜劇に変えて作品にできるのは彼が空気を読めるエンターテイナーだから。

この人モテそうだな、とテレビに出ている西村賢太を見るたびに、モテない枠で笑いをかっさらっていく芸人さんに漂う色気と同じ匂いをくんくん嗅いで私は激しく欲情する。

 

話がそれた。

まあそんなキャラの違いもあり、また作風の違いもあり、今回「きことわ」で朝吹さんの小説を初めて読んでみて、私はこの二人が芥川賞の同時受賞となったことは大いに納得。むしろ二人揃っての受賞が必須だったのではないかという結論さえ出る。というのも、この二人の作風の違いは,現代小説がどんな役割を担っているかという実情をはっきり提示する、象徴的なものだったからだ。

 

先に書いたように一般読者の朝吹作品に対する風当たりは西村作品に比べ冷ややかに感じた。

 

「言いたいことがよくわからない作品」

と拒絶されたり、

小説で伝えたいメッセージなどない、という朝吹さんの創作態度が否定的に受け取られるのは、いったい何故なのだ。そりゃあ賢太に比べたら朝吹さんに親近感は湧かない。なんか殿上人っぽいし。でも、作品を読めばいやでも一目置いてしまうけどな。好き嫌いは別として。泥臭い西村さんと洗練された朝吹さんとで明らかに割り食ったのは朝吹さんな気がしている。

 

さて。ザ・私小説作家という感じの西村さんと,名門朝吹家(色々なインテリ輩出家系らしいです、よく知らないけど)の出身という真理子さんのキャラクターや出自の差は、とりあえず脇に置いておくことにして。今回は朝吹さんの小説を材料に、小説の機能を考えてみたい。

 

まずは2つの作品に対して、読者の反応がはっきり二極化する理由を分析してみた。

あくまで私見だが,その背景には,

①小説という表現形式の持つ複数の機能(目的)

②その機能への理解がなされぬまま、読者各人の裁量によって小説が読み解かれることの弊害

という2つの要素があるように思う。

 

①小説という表現形式の持つ複数の機能(目的)

 

これは単純に言うと、小説は何のために書かれるのか。ということだ。

そもそも小説は言葉で書かれており、言葉である以上それは「意味(情報)」を持つ。この「意味(情報)」によって、小説は物語を構成することが可能になる。

 

しかし、小説における言葉には情報を伝える以外にも、言葉によってイメージを喚起し、その喚起したイメージによって、文字で書かれていないものを読者の頭の中に再構成する、という働きがある。

 

多くの文学小説は、情報の伝達とイメージの喚起とを同時にやっている場合が多いように思うか、小説において必ずしも物語の構築というのは必須ではない。(数年前に芥川賞を受賞した黒田夏子さんの『abさんご』なんて、その最たる作品だ)

 

「言語によるイメージの喚起」に比重を置いて、物語性を排した作品においては別の尺度での価値が認められる。(しかし、そういう作品を鑑賞するだけのリテラシーが一般化していないのも事実。)

 

言うまでもなく、朝吹さんの作品は物語性よりも言語のイメージ喚起力に比重が置かれている。

 

②その機能への理解がなされぬまま、読者各人の裁量によって小説が読み解かれることの弊害

 

多くの場合、「小説を読む」=「そこから意味や物語を読み出だす」というやり方が広くとられているが、「意味」や「物語」ではないものを構築している小説の場合、それでは作品の意図と読者の理解との間に齟齬が生じる。

 

この場合、読者は読み出だすべきものが存在しない小説を不良品と見なすだろうし、そもそも作品を評価するための物差しをはじめから持っていないということにもなる。

(だから、この場合に作品に対して拒絶や酷評が行われたとしても、それはその読者の小説リテラシーの不足を意味するだけで、必ずしも審美眼の欠如を示唆するものではない)

 

朝吹真理子さんの「きことわ」という作品は、人間の意識の在り方、その流れを言語に置き換えて追体験できるように配慮された装置である。

 

作中では、過去のある地点が、次の文章ではいつの間にか現在になり、そしてそれが夢か現実なのかもよく分からない、といった描写がところどころに用いられたりしているが、そこまであからさまでなくとも、登場人物の意識の運動にあわせて出来事の遠近が自在に切り替わっていき、その切り替わりの連続した集まりを人間の意識は一本の糸となってつらぬいていく、といことを読み手は体験する。

 

つまり「きことわ」は実に丁寧に造られた人間の「意識」の雛型だ。

 

おそらく「小説で伝えたいことはない」と朝吹さんが言うのは,彼女の小説の目的が言語化できる情報や物語ではなく、言語を通じてなされる一つの体験を小説によって作ることにあるからなのだと思う。

 

そしてそういった作品づくりを「言語化可能な物語」が成り立つギリギリの地点まで攻めようとしているところがチャレンジャーだし、結果的に誤読されやすいという事態を招いている。(逆に攻めすぎて理解不能となった小説の方がかえってわかりやすいのか、「前衛」として評価されたりするのが皮肉だ)

 

というわけで、すぐれた小説が何かという定義は難しいが私は小説の目的を高いレベルで達成しているという意味で、「きことわ」という作品は非常に高品質な良作だと思う。

 

それにしても「きことわ」のような小説の楽しみ方が、小説とか読みます、と仰るユーザー層にも一般化していないことは残念だし、文学と括られるジャンルがマニアックなものとして捨ておかれる事はそこに従事する人間として忍びない。

そして、ふだん人の書いたレビューなどあまり読まないのだけれど、たまたま目にした感想群が小説に対してあまりに無理解なのがちょっと悲しくて、その悲しさの源を辿っていくと、それは「好き嫌い」以前に「よく分からないものは排除する」という思考に対する悲しさと怖さだったりする。 (よく分からないけど面白い、に転べばいいなとは現時点で希望的観測。)

 

読者の鑑賞筋肉がぞんぶんに鍛えられてこそ、良質な作品が育まれ、より良い評価を受けることになるだろうし、駄作は自然に淘汰されるだろうと思う。もちろんそれは小説に限った事ではない。

やはりどんなものにも入門書があるように、小説を読むにあたっても素晴らしいものについて、何がどう素晴らしいのか、を手引きする指南書が必要なのかな。 小説家の保坂和志さんとかがコツコツとそういう手引きを書き続けてらっしゃって、それもまた作家の役割だから、と引き受けているのが愛だな、と思う。

 

(この記事は2012年に執筆したレビューを加筆修正したものです)