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私たちにおける、素晴らしい座標を

江國香織『落下する夕方』 落下したもの、喪失の色彩。

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誰も帰ってこない12月の夜の部屋で、これを書いている。
地球上は黒く冷えて、誰かの呼気で濡れた窓ガラスの内側には赤いカーテンがかかっている。
巨大なストローを突き刺した形の加湿器がその細長い先端から滝のようにミストを床に吐き出し続け、中の水がなくなるたびに私はプラスチックのタンクを取り出し、蛇口から水道水を注ぎ込むと、再びそれをセットして白い小さなくぼみを押して電源を入れる。


もうあと数時間で、『2016年』というフィルムが終わり、客席は空になってしまう。しらけたスクリーンには「過去」という題字だけが延々と映し出されるだろう。誰もいない映画館。まるで誰もが新しい次の映画を見たがっているみたいに、どこか遠くへ行ってしまった。
一人きりで、映画館に居残った私は取り残された人間だ。
ふと、そんなことを考える。


私の知らない映画館では、もう次の上映作品のタイトルも順番も決まっている。
まずは『ニューイヤー』。
それから『日々の生活、その慌ただしい再開の気分』。
そのあとは、数字をひとつ増やしただけの『2017年』。
シンプルかつ、すべてを包括する良いタイトルだ。
予想できるのは少し先まで。
そのあとに起こる出来事を細分化し、象徴的な良き名で呼ぶのは難しい。
だって、私は今はまだ過去の真っ最中にいる。
『2016年』
その場所から、さらに遠い過去に思いを凝らしている。

誰も帰らない赤いカーテンの部屋。テーブルの上にはリモコンと透明なグラスに注がれた飲むヨーグルト。見た目は牛乳と区別がつかない真っ白な液体。手に持って揺らすと、器の動きを鈍いスピードで液体が追いかける。
そのグラスの隣には彼女の本が置かれている。
タイトルは『落下する夕方』。

初めてこの小説を読んだ時、私は19歳だった。
そして19歳の私は、この物語を味わうことができなかった。
こんなにも美しい作者に恋の苦しみや喪失などを描けるはずがないだろう。頭からそう決めて、読んだ後もその考えを押し通した。私は早熟さに欠けるごく平凡な19歳で、物事を単純に考えたかった。美しい人の中に絶望があることを何かの間違いにしておきたかった。
著者近影を見るにつけ、この小説は才色持ち合わせた恵まれた人ゆえに紡ぐことができるロマンチックな失恋へのファンタジーだ。そう片付けようとした。そのくせ作品のあちこちに心がひっかかり、動けなかった。片付けることができなかった。

今にして思えば、それは美しく才ある作家への嫉妬と羨望とによって反射的に出た拒絶反応だったのだろう。
私は江國香織という人に反発し、違う違う、そう叫んだ。
そして、この作品を忘れようとして、忘れて、十数年の人生が過ぎた。

年をとることは、何かを失うこと。そう言う人もいる。
例えば、若さとか。可能性とか。毒にも薬にもならないムダな思い込みとか。
新しい1日を生きて、新しい1年を生きて、新しい十数年を生きたことで、私は失う一方でまざまざと自分の人生を手に入れた。
誰もがその人なりの幸不幸をたずさえて生きていること。
その仕組みにつながれて死ぬまで歩かなくてならないこと。
美しく才ある人があっけらかんと小説を書いているわけではないこと。
人生を生きていたある日、そんな当たり前のことにようやく私は行き当たった。
そうだったのか、と声に出さずに呟いた。色々なことが腑に落ちて、そして私は美しかった。江國香織ほどではないけれど、言われても邪魔に思わないくらいに私は時々美しく、そして人生が苦しかった。


拒絶したくせに現金なもので、この十数年、自分の恋が意に反した終わり方をするたびに、私の胸には『落下する夕方』の切ない幾つかのシーンがふいに兆した。

例えば主人公が、別れた恋人をむりやりに抱こうとする場面。
もはや自分を求めていない男に、自分を女とすら見ていない男に、力づくでも抱かれようとする。
彼を救いたい一心で。もはや愛され直すことはない、と諦めながら。
そのやり切れない必死さを小説に描いてくれた作者に私は何度も敬服した。
女でも、美しくても、強い力で深くやさしく愛されたことがあったとしても、そのすべてが意味を失うような瞬間が誰にでもやってくるのですね。
素晴らしい恋人と出会えたとしても、めくるめく喜びを分かつ夜があっても、自分の中の絶望がちっとも薄まらない孤独をあなたはとっくにご存知で、だから小説を書いているのですね。人生の予告編のように、私たちに知らせるために。いざその瞬間が訪れて、私たちが驚いて取り乱しても大丈夫なように。


江國香織を拒絶してから十数年後の『2016年』。
私は本編が終わって、エンドロールが流れ始めた映画館でひとり正面を向き座っている。
膝の上に『落下する夕方』の文庫本のページを開きながら。

あらためて、この物語を読み直してみる。
すると『落下する夕方』は「喪失」を描いた物語だ。
ページをめくるとそこに現れるのは、「失恋」でも「恋の不思議な三角関係」でもない。そこにあるのは、抗えない「喪失」を静かに抱きしめる追体験の時間。

主人公の「失恋」から新たに生まれる人間関係。
不在によって、より強くその人の存在が際立ってくる不思議な仕組み。
そして、この物語において描かれる「喪失」は関係性の死だ。
時には死者とでさえ人間関係は続いていく。
けれど、かつての恋人との間にあった関係が死を迎えた時、それは永遠に取り戻すことも生き返らせることもできない。
その抗えない「喪失」を主人公はゆっくりと静かに受けとめていく。

二人の関係性の死とともに、墓所となった二人のかつての住処を、主人公が旅立つことを決めるラスト・シーン。
それはおごそかに強く、美しくて、悲しい。
そのシーンにいたるまで、悲しみは血のように風景ににじみ、けれどそれは私たちの視界を汚すことはなく、水彩画のように淡く染めるだけの透明な赤色だ。繰り返される日没の眺めのように、それは私たちをおびやかすでもなく、ただこの地上に毎日のように射し込む、命の色そのものだ。

落下する夕方』の眺めは繰り返されるのだろう。
私たちが生きて、生きて、生きている限り。
けれど、生きていく上で決定的な汚点など残ることはないよ、とでも言うように江國香織の描くその色はどこまでも透明で美しい。

もうすぐ新しい映画の上映が始まろうとしている。
私は十数年前に落としたチケットの半券を拾ってから、次の映画館を探しに行こうと思う。