ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

お弁当箱に核燃料が。村上春樹も三島由紀夫も。

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恋人に勧められて日本の文学小説を読み始めたのは、15歳の夏休みであった。

 

初心者の私でも読めるだろう、と最初にレコメンドされた作品は、

三島由紀夫仮面の告白』。

そして、村上春樹ノルウェイの森』。

 

2作ともある意味リーダブルな作品ではあったけれど、コナン・ドイルシェイクスピアしか知らなかった牧歌的な女子高生のメンタルには、どちらもいささかセンセーショナルな内容であったと記憶している。 

 

死と性。

厄介な自意識とのガチの向き合い。

繰り出されるクサい比喩。

文学作品の織りなす、常識の埒外の世界観。

 

当時の私にとっては何もかもが強烈な初体験であった。

 

文学。

 

その禍々しくも魅力的な魔世界への入り口が、こともあろうに公立高校の図書室の一角に設置されている。

そして、厚紙でできた図書カードへの氏名の記入と引き換えに無知で平和な青少年にも大々的にそれらの魔書が貸し出されている状況が、その時の私には大変異様なシチュエーションに思われたものだ。

 

(その構図はまるで、よく晴れた遠足の日の朝に台所に立つお母さんがプラスチックのお弁当箱に核燃料を詰めているような、そんな恐ろしくシュールな光景を連想させた)

 

けれど、そんな出会いの衝撃とは裏腹に、私の10代の頃の読書というのは形ばかりのファッションに近いもので、それを文学鑑賞と呼ぶにはあまりに稚拙であったと今となっては少なからず残念に思う。

 

もちろん作品を読み、話の筋を頭に入れて、印象的なフレーズに心打たれることはままあった。けれど、それでも個別の作品の内容に本当の意味で触れることができたのは、年月を経てようやく30歳を過ぎてから、というのが正直な実感である。

 

三島由紀夫村上春樹も10代の頃に貪り読んだ。

 

そのように言えばいかにも文学において早熟であったように響いて聞こえはいいが、文字列の奥にある作品の姿を捉えるだけの眼力というのは、自分の場合はその後の人生を生きる過程において知らず遅れて蓄えられてきた。

 そんな気がしてならない。

 

そしてまた、私が本当の意味で「小説の書き手」というものに感嘆したのは、自分が文章を書き始めて、詩でも散文でもなく、「小説」というフォーマットを用いて作品を作ることを実践してみての事だから、それはもう本当についここ最近というタイムリーな話になる。

 

いずれにせよ、10代の時に一度は読んだ小説群を40歳近くになって改めて読み返した時にまったく初めての感動に行き当たるというのは不思議で得難い体験である。

 

それと同時に優れた骨太な作品なればこそ、多少は肥えた私の鑑賞眼を軽々と圧倒してなお力を余しているのだろう。

そのように推察する。

そこに感心することしきりである。

 

そんなわけで、先日から村上春樹ねじまき鳥クロニクル』という長編を読み返している。

 

この『ねじまき鳥クロニクル』は村上さんの小説家としての人気も大々的かつ安定したものになり、環境もコンディションも申し分ない、いわばキャリア・ハイの最中に絶妙に脂がのった筆で意欲的に描かれた大作、という印象を私は抱いている。

 

初めて読んだ当時(私が高校2年の頃に「ねじまき鳥」は書き下ろしの長編小説として発表された)にも、「なんだか村上春樹の新作すごいな」と思った記憶があるが、あらためて読み返すと当時は全然分からなかった成分を味わうような、新鮮な感動がある。

 

それは以前なら見えなかった「小説の設計図」がまるでレントゲン写真のように見えることだったり(そこには地図も持たずに散々歩き回った迷路の見取り図を手渡されたような、作者と作品の答え合わせをする喜びと俯瞰の視点に立ったときの興奮がある)、主人公である「僕」が歳をとった今の自分から見ると年下の男の子、であるというだけで小説の肌触りがかなり違うものに感じられたり、といった新たな発見だ。

 

そして、読みながら高校生の私が感じた「すごいな」の正体を少しずつ腑分けしつつあるのだが、この作品をはじめ、村上作品の醍醐味はやはり、テクノロジーが発達した現代だからこそより深く大胆に踏み込める「人間の意識」という領域において、小説的なアプローチを実践している点にあるのだと印象を強くしている。

 

小説という形式を使って「人間の意識の模型」を作ることは既に夏目漱石が実践しているが、漱石よりもよりダイレクトに分かりやすくやっているのが村上春樹という作家だと思う。

 

画家に例えるなら、漱石セザンヌ

春樹はピカソだ。

 

セザンヌは一見すると、林檎とか山とか、ごくごく普通の静物画や風景画を描いているようでいて、実はそこで空間の再構成とか抽象的な実験をいろいろとやっている。

(そのために同じモチーフ、同じ構図の絵を何百枚も描いている)

 

それに対して、村上春樹ピカソのように分かりやすい。誰が見ても「実験的」なことをやっているイメージだ。

分かりやすいがゆえに、描かれた絵の意図を読めない人がアウトプットされた結果だけを見て、「下手な絵」だと言い始めたりする。その作品の価値を決めるのは「写実性」ではなく、「実物を二次元平面に落とし込む時のプロセス」である、という事は多くの人には伝わりにくい。

 

そのような背景があるから、漱石のようにオーソドックスな物語としても読める作風の方がその小説の読み手の層は厚くなる気もするが、春樹がこれだけ支持を集めているというのは彼の小説がアウトプットの結果だけでも魅力的である、ということもさることながら、その下敷きになっている「小説によって作られた人間の意識の模型」というものが、いかに人を惹きつけるか。その証左であるように私は考えている。

 

そんなわけで、細部のディテールや読み心地の好き嫌いはままあれど、やはり代替可能な書き手がほかに見当たらないという意味で、村上春樹は本当に現代を代表する作家であるなぁという感慨を深めるとともに、その作品の「読み方」のようなものがより広く豊かに共有されることは自分の創作においても回り回って益あること、などと思ったりする。

 

三島由紀夫の話も書こうと思っていたのに、長くなってしまったのでまた次の機会に。ちなみに私が一番好きな村上作品のは、「ダンス・ダンス・ダンス」という長編です。「ジョジョの奇妙な冒険」でいうと第3部、「ターミネーター」で言えば、第1作を踏まえての「ターミネーター2」的な位置づけの作品で、「羊をめぐる冒険」という作品を読んでから読むことを強くおすすめします) 

面会の効用、渋谷の養老天命反転地。

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5月中旬某日。

 

引きこもっている。

 

人間との対話に乏しい毎日。

茶店での注文やよろず屋での挨拶を除けば、話らしい話をしていない。

 

社会性という筋肉がこのまま衰えて戻らないのでは。そんな不安が芽生え、なかば無理やりに出かけてみる。

 

近隣の書店で行われている本の出版イベントや、読書会といった集まりに参加。

発言の機会は十分にあり、多少なりとも内容のある会話をかわすことで、脳と社交性に刺激を与えたいと目論むが、催しの内容はどれも退屈極まりなかった。

うんざりした気分で帰宅。

 

茶店の注文とよろず屋での挨拶だけで、いまの私には必要十分量の社交生活だと思い知る。

 

5月下旬某日。

 

体のメンテナンスの効果が出てきたような気がする。

 

首の痛みもほとんど出なくなってきたし、眠りすぎることもない。

 

4月から始めた室内でのエクササイズも板についてきた。

体重や体脂肪といった数値にそこまで変化はないものの、1時間半程度のトレーニングが苦行ではなく習慣に変わりつつある。

 

我ながらとても素晴らしいことだと思う。

 

そんな矢先、飼い猫たちの毛づくろいを手伝っていたら、白猫の額の部分に瘡蓋を発見。

ブラシで毛をかき分けてみると、一箇所だけでなく額全体にわたって瘡蓋が広がっている。

 

ネコダニ、疥癬、皮膚癌、脱毛、免疫不全。

 

インターネットに散らばる不穏な単語を集めていると、恐ろしさばかりがそそり立つ。ひとまずかかりつけの動物病院を予約。

 

猫は何も知らず、瘡蓋まみれの頭で狭い部屋の中を無邪気に走り回っている。

 

夜、獣の小ささが哀れで真っ暗な部屋でひとり泣く。

姿見の中に自分の引き締まった腹筋がむなしく映っているのを見つけて、用心深く生きても避けられない不幸、という誰かの言葉が眼裏に浮かぶ。

 

5月晴天。

 

発明家のミサンガと渋谷の坂の上で待ち合わせ。

 

渋谷の坂の上は駅でいうと井の頭線の「神泉」という場所なのだが、土地の起伏と坂道によって構成されている駅周辺というのが、まるで岐阜にある「養老天命反転地」だ、という話で盛り上がる。

 

現代美術家であり、思想家でもある荒川修作の作品「養老天命反転地」。

この作品のコンセプトは「人間は死なない」というものであり、物理的に肉体が滅びた後も、土地の記憶として、あるいは編み込まれた時間の一部として、人間は死なず、場所と溶け合って生き続ける、という思想が埋め込まれている。

 

実際の「養老天命反転地」はカラフルな屋外アスレチック、という出で立ちなのだけれど、「鑑賞者が斜面や坂道で怪我をするのではないか」という安全性を懸念する管理者サイドに向かって、荒川修作は「そうでなくちゃ意味がない」と言ったという記事を何かで読んだ。肉体の可能性を、破損や不自由という広義の可能性も含めて、最大限に引き出し、意識化する装置として「養老天命反転地」は存在している。

渋谷円山町近くの迷宮のような路地裏のアップダウンを踏みしめながら、私は足元の地面に向かって「そうでなくちゃ意味がない」とは思わない。

私が思うと思わざるとに関わらず、作者不在で出来上がった「都市」というアート作品は、おのずと生と死のはざまのグラデーションをすべて含んだ器のように機能しているのだ。そのことを思って、人為的なものをあらゆる意味でやすやすと凌駕していく自然の巨大さ、そして残酷なまでの人間味の無さにしばしおののく。神というものがあるとすれば、それはこの自然の仕組みそのものではないのか、などと考える。

 

発明家ミサンガはアボカドを挟んだパンを3つ喰い、私はよく冷えた珈琲牛乳をすすって暑さをやり過した。眠ることによって絵が描けるアプリの開発話などを聞くうちに、太陽が西に落ちて、神の泉の天命反転地にまた新しい夜が訪れる。

 

子を憎んでも、母。

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親になる事とは、無縁で生きていくのだと思っていた。

 

命を預かり、守り、育むという仕事が自分の人生に舞い込むことを想像して楽んだ日もあったが、それはもはや遠い過去の話である。

 

改めて人生を振り返ってみれば、結局親になる事はいつも自分から遠かった。

たとえば縁あって、妻になった時も。

父になりたいと願う人をつよくつよく愛した時も。

私はいつもどんな時でも母になる道を固辞し続けた。

 

その道を選ばなかった理由は判然としない。

 

妨げとなったものを書き連ねることができたなら、いっそサッパリとした心持ちで自分にも他人にも申し開きができそうに思うが、まったくよくわからない理由でもって、私は子を産むことも、親という立場を引き受けることも、やらず挑まず今日まで生きてしまった。

 

婚姻の最中、孫の顔が見たい、と請われた折は、自分の中にない色を出せと言われているような、泣きたいような心持ちになるばかりだったし、年増なのだから急いで子作りを、と道理を説かれれば、季節の終わりに焦るのはかえって不様だと居直る気持ちが湧いてきたものである。

 

そこには、他人の都合や価値観でもって自分の人生が圧迫されることへの反発心も多分にあったことは間違いないが、それでも自らの心に沿ったお節介であれば、軽く聞き流すこともできたはずだ。

 

けれど私は結婚を飛び出し、母となる運命を反故にした。

全身全霊で挑んだその脱出劇を悔いる気持ちは少しもないが、人の心を手折った時の鈍い痛みは忘れようがない。

 

独立国家を作るみたいな物々しい離縁の季節から数年を経た今思うことは、母となる道においては理屈などなく、単純な好き嫌いがあるだけ、ということである。

 

母の子として生まれてのち、いつの間にか女になった私は、妻になることはできても、自らが親になる事には生涯疎遠だと悟るための結婚であった。

 

当たり前のように母となっていく人たちを見るにつけ、何かを問われているような居心地悪さを抱いて過ごした時期もあったが、四十を目前にしてみると、自分に縁がない趣味や娯楽を一瞥するのと変わりなく、今では母になるという選択についてほとんど何も思わない。

 

人の好みに論理や筋道を求めて理由づけしたがるのは暇人のやることで、暇人代表のような暮らしを送っている私としても、好みは感覚の産物であると、そのくらいで分析をとどめておくのが上品な気がしている。

人の親になるということは、きっと素晴らしいことであるかしれない。けれど、自分がやるかと言われたら、決してやらないし好まない。

フルマラソンを走るのか、それとも走らないか。

いまの自分にとっては、そういう話と等価である。

 

そんなわけで、人の親となることなく、妻の座も降りて、ぼんやり一人で生きていくのだろうと思っていた私のところへ、この春二匹の猫がやって来た。

 

露天で死にかけている子猫たちを、もらってくれと言う人がいたのである。

 

獣の類を愛でる習慣もなければ、面倒見の良い人間でもないのに、なぜだか猫は引き取ろうという決意が生まれたのだから、人はわからない。

 

暴れ回って家の中を荒らすときには憎たらしい猫であるが、来客がある折には随分と怯えて決して人を信じない。物陰に隠れて、じっと気配を消している。そのくせ客が帰るが早いか、私を頼りにすり寄ってくる。気を許すとはこういう事かとまざまざ獣に教わる気分である。

 

動物病院に出向く折には、付き人である私は医者から「お母さん」なる呼称でもって呼びつけられる。

 

猫にしてみれば、私は「飼う人」ではなく、彼らの母であるらしい。

 

実際に猫たちがどう考えているのかは知るよしもないが、彼らを看取るその日までは決して野垂れ死するわけにはいかない、などと自分の柄にもないことを時々は胸に思うあたり、単なる飼育関係と捉えるよりも母子のようなウェットな呼び名こそが相応しいのかもしれない、などと思ったりもする。

 

日々の腑分け、ギリシャ人のスープ

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5月7日。

 

2月頃から首の調子が悪い。

歯磨き時のうがいの姿勢がもう辛く、読書の姿勢をキープするのも次第に困難になってきた。

整体やマッサージ店に足繁く通うも毎度「手に負えないですね」と重症であることを示唆されるのに飽きて、根本治療を決意する。

 

筋肉のこりや緊張、関節の可動における不具合は炎症部分だけをいじってもあまり効果はなく、それを引き起こしている内臓の疲労や精神的な要因にアプローチするのが先決である。

 

それを分かっていながら幾日も近所の肩揉み所でお茶を濁していた理由は単純で、根本治療を任せられるゴッドハンドの治療院(新宿方面)まで赴くのが非常に大義なのである。

 

新宿駅も東西南北の各エリアによって雰囲気が違っているのだが、治療院のある場所はやや大久保よりの北側エリアに乱立するアジアンな雰囲気の雑居ビルの最中だ。

 

おりしも診療当日は土砂降りの雨。

 

大久保方面へと伸びる西新宿の道のりは、映画「ブレードランナー」を彷彿とさせる都会の陰鬱さに満ちている。

 

しかし悪天候だろうが、ロケーションが灰色の未来都市だろうが、予約がなかなかとれないこの治療院に「キャンセル」の文字はない。

 

雨に濡れたスカートの裾を絞りながら診療所にたどりつく。

気を取り直してゴッドハンドに首の不具合の原因を腑分けしてもらう。

 

治療は筋肉の緊張を引き起こしている臓器を順番に整えていく。

 

まるでミルフィーユの層を一枚一枚剥ぐようにして、こりや痛みの原因を引き起こしている臓器の反応をひとつひとつ丁寧に取り除いていく。

それに連動して、徐々に肩や首の可動域が広がり、体もほぐれて楽になってくる。

 

この日は、副腎、胃腸、子宮、と順番に反応が出ている箇所の臓器を微調整。

(微調整といっても、何をどうしているのかはわからない。揉んだり叩いたりもなく、お腹をちょんちょんされているうちに、肩や首が勝手にほぐれていくのが不思議だ)

 

施述の最後に「肝臓の反応が出ていますね」とゴッドハンド。

酒も飲まずに暮らしていたのに、と私が嘆息すると、

「なにかイライラすることがありましたか」

と尋ねられる。

 

肝臓は苛立った感情を司る臓器らしく、イライラが続くと負担がかかるらしい。

思い当たるふしもあり、またすこぶる身体も緩んだので満足して帰宅。

 

精神の波立ちをうけとめる器としての肉体の精密さを思って、

「肝臓、その他もろもろの臓器たち。いつもいつもありがとう」

と唱えながら寝る。

 

5月8日

 

春先に小説を仕上げてから、食生活を見直している。

 

執筆期間中はセブンイレブンで買ってきた「黒糖ロールパン(3個入り)」を朝に昼に牛乳で流し込んで空腹をしのぎ、夜は近所の飯屋で適当なものを食べて寝るという生活。

量も、質も、手間のかけ具合も、すべてにおいてバランスと思想を欠いた食生活のせいで、皮膚も暮らしも荒れ放題。

見直す余地はじゅうぶんすぎる程あった。

 

まずは自炊だ、と思い立ち、炊飯器を駆使してひたすら毎日野菜のスープを作り続けたのが4月。

(キッチンにはガスコンロがないので、加熱系の調理は主に電子レンジと炊飯器頼みである)

 

レンコン、人参、大根といった根菜類もたやすく摂取できるこの炊飯器スープにすっかり味をしめた私は、栄養価においてもさらなる充実をはかろうと思い、輸入食品店をはしごして、めぼしい食品を物色しはじめたのがこの5月。

 

アマランサス、キヌア、チアシード

俗に言う「スーパーフード」はやはり凄いらしい。

 

輸入食品店の品揃えとネットの情報を元に、買い漁ったスーパーフードたちを日々のスープに投入し、ビタミン、ミネラル、食物繊維を存分に摂取することに成功する。

(何かの種だというこれらのスーパーフードたちは食感もぷつぷつで楽しい。

食感フェチの私は、規定量よりもかなり多めに入れてしまうが、まあいいだろう)

 

黒糖ロールパンが野菜スープに置換されただけで顔に血の気が舞い戻り、高栄養価のスーパーフードを摂取しているという気分がまたすこぶる健康に良い気がしている。

 

調理のたびによく使うアマランサスについて、

ギリシャとかローマとか昔の文明が栄えていた地方の言葉っぽい」

と勝手に思っていたのだが、ググってみたところ「アマランサス」の語源はやはりギリシャ語であった。

(アマランサスは、ギリシャ語で「花がしおれることがない」の意味らしい)

 

アマランサス。

ギリシャ語の食べ物。

 

日本の米を炊くための機械でギリシャ風のスープをこしらえながら、洒落た気分に浸る毎日であるが、主菜はたいていロールパンを合わせがちであるのを今後は改めていきたいとぼんやり考えている。

 

(写真はアマランサスと香菜のスープ。アジアとギリシャの融合である)

三鷹、世界とバレリーナのための喫茶店。

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中央線の高架工事ですっかり様変わりしてしまった他の駅と違って、三鷹駅はまだかろうじて昔の佇まいを残している。

それが私には救いのように思われる時がある。

 

小学生の頃、バレエのレッスンのために電車を乗り継いで、三鷹駅前の小さな稽古場にひとりで通っていた。

駅を降りてすぐの、線路沿いの雑居ビルにはさまれた建物の中に幼い私のステージがあった。

 

まだ残っているだろうか。

そう思って、大人になって訪れると、バレエの稽古場だと思っていたその場所は日本舞踊を見せる演芸場の会議室であった。

 

当時の練習生だった私たちはレッスンがはじまる前に椅子や机を部屋のすみっこに寄せたり、バーレッスンの際につかまるための壁際の手すりは見つからなくて、自然折りたたんだ机の縁につかまって脚の上げ下げをしていたことなどが思い出されて、そうだったのかと今更ながら合点がいって可笑しかった。

厳しいレッスンをする先生は、いつも幼い乳飲み子を連れて稽古場に自転車で現れた。小さな町のバレエ教室だった。

会議室が畳敷きではなかったのが唯一の救いで、子供だった私は硬いリノリウムの床があるというだけで、そこをバレエを踊るためのステージだと信じて疑わなかった。電車の切符を握りしめ、長く伸ばした髪をお団子頭にひっつめて、大人たちに負けないようにと中央線の車両の扉付近にいつも凛々しく立っていた。

白いタイツと、バレエシューズを稽古バッグに詰めた、痩せぎすの小学一年生。

父はなく、母は不在がちで、ただ踊ることと、夢を見ることだけが慰めであった。

 

幾たびも転居を繰り返し、ふたたび武蔵野に戻ってきた今はあれから30年近く隔たっている。

バレエを踊るための凛々しさは一体何処で失くしたのか、今となってはもう持ち合わせてはいない。

 

冬から借りている今の部屋から財布と文庫本を手提げに入れて、ぽつぽつ歩くとすぐ三鷹駅だ。

最寄り駅ではないのに、その近さを最近になって発見して驚いている。

東京に暮らしていると、自分のいる場所がときどき思いがけないところに繋がって、それが面白い。

 

殺人的な吉祥寺の混雑に比べると三鷹駅前はとても寂しく、それなりに店数はあるものの熱量に乏しくて死にかけた人を訪ねている気分である。

店をのぞけば顔色の悪い店員がレジを打ち、生活に疲れた顔のアルバイトが棚に並べた化粧品の埃を払っている。

品物は色褪せて、建物は何かを諦めて久しい感じがする。

どこか地方都市のような空気をまといながら、それでもその寂しさの中に懐かしさをおぼえるのは、かつて見知った場所だからなのだろうか。

 

人が歩くには巨大すぎるバス通りが駅からまっすぐ北に伸びている。

その通り沿いに小さなカフェを見つけて、私はその隙間のような空間で椅子に座り、本を読む。

静かに過ごすための喫茶店です、という但し書きがあって、店内では声を失くしたように人々は沈黙に身を溶かし、ただ時がすぎるのをじっと味わっている。

 

物静かな店主に淹れてもらった珈琲を冷ましながら、日没によってトーンダウンしていく西の空をブラインド越しに眺めると、今日という1日はもう二度とやって来ないのだという刹那さを思う。悲しくはないのに、涙に似たものが込み上げてくる。

 

グラスに注がれた液体は少しも減ることがなくて、カップの中の珈琲からは温度だけが失われていく。

私は椅子に座るだけで何も減らしていないのに、今日は滅びて、手の届かない場所へと移動していく。

 

人々は気づいているのだろうか。

今日という日が人類にとって最初で最後の1日で、そのただ一度きりの塊が滅びようというこの瞬間は二度とこの地上にやって来ないのだというそのことを。

 

ただ一度きりの上映しかない映画のエンドロールを眺めるように、私は三鷹駅前にある小さな四角い覗き窓から、滅びゆく世界のラストショットをこの眼にじっと焼き付けている。

 

踊らなくなった今の私にできるのは振りほどくことで、古びた皮膚の中にうずまく思考のノイズを脇にどけて、あるがままに世界を観ることは、これからもきっと変わらず出来そうな気がしている。鎧を着せかけられたこの眼差しを、時々裸にして日の光にあてること。それを時々、思い出すことは。

小説という肉体、抱擁のために

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「小説」は現実の世界に足を踏みしめながら楽しむことのできるフィクション、だと思っている人も多い。

 

「小説」は物語で、謎解きで、歴史や世界を教えてくれる情報源。感動の装置。

世間では、広くそのように考えられているように思う。

 

この現実世界を構成する1つの事象、要素、趣味として楽しむ対象物。

野球やサッカー、ラーメンや雪見だいふく

極端に言えば、「小説」はそういうものと同列に位置づけられているような気がする。

(世界を構成する一部であって全部ではない、という点において同列、という意味である)

 

けれど、実際に自分で小説を書いてみて思ったのは、小説はそれを書いている世界を含むもう1つの世界であり、小説こそが「現実」である、ということだ。

 

たとえば、小説を書いていると、その中には遠近が生まれ、時間軸が生まれ、それらを掛け合わせることで運動性が生まれる。

 

動かそうとしなくても、しっかりと作れば、「小説」という構造物は自発的に動き出す。

 

この場合の「自発的に動き出す」というのは、例えばある登場人物を描いたら、作者の意図をはみ出して勝手にセリフや筋書きが出来上がる、というような創作上の「運動性」「自発性」のことを言っているのではない。

(「アイディアが降りてくる」とか「キャラクターが動き出す」とか、創作における紋切り型のセオリーを言葉の表層的な意味でしか授受できなくなっている人は、そういう話をしているわけではないので、注意深く読んで欲しい)

 

そうではなくて、小説が現実を文章で写し取り、デフォルメした模型、というような生易しいものではなくて、そもそも空気中に散漫に溶けている「現実」をしっかりと抱きしめるためには、小説のようなフォーマット(器)が必要で、そこに流し込んで初めて、私たちは「現実」の色合いや質感や重量などを測ることができるし、そもそも「現実は存在するのか」という事実そのものを確かめる方法は小説でしかありえないのではないか、とさえ考えるのである。

 

生きていて、この生きていることを確かめることは不可能だ。

自分の顔を自分で見ることができないのと同じように、生きているということを確かめるには、生きているもう一人の自分を連れてくる必要がある。

手鏡や写真やビデオカメラで、間接的に自分のすがたを確かめて、ああ自分は存在している、ここに生きているのだ、と思い込むことはできる。

同じように、過去の記憶や現在にまつわる情報を寄せ集めて、「生きている」ような気分の中を私たちは生きている。

自分ひとりでは心細くて多くの人と一緒になって、「生きている」ムードを共有することで安堵している。

けれど逆に言えば、それは単なる「気分」であって「生きていることそのもの」ではない。

だから人はときどき、不安になるのだと思う。

自分が生きているという、その根源的な事実を確かめることができないのだから。

その状況は冷静になると、あまりにも恐ろしい。

それに気づけない鈍感な人ほど、心に余裕をもって生き永らえることができるのだろう。

 

では「生きていることそのもの」とは一体どこに存在するのか。

どうやったらそれに触れることができるのか。

そのひとつの答えとして、私は「小説を書くこと」を提案したい。

読む、のではなくて、書くことが重要である。

書くことによって初めて、「自分が生きていること」がわかる。

「小説」の中に生まれた世界が、小説を書いている自分のいる世界を浮かび上がらせてくれる。

生きている自分を見つめるための、もうひとりの生きている自分。

そのもうひとりを小説という肉体に宿すのだ。

 

小説を書くことで、そういうことが可能になる。

生きていることへの感謝が生まれるとか、人生の素晴らしさを実感するとか、そんな表層的で道徳的な効能を謳っているわけではない。

ただ、自分がたしかに生きていること。

その命の手触りを抱きしめることのほかに、人が救われることなんてあるだろうか。

書きながら、そんなことを考えていた。 

 

 

春を呪えば、これがデビュー。

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年末頃から始まった小説をなんとか書き上げて、制作中の疲労をまとめて清算する毎日である。

三ヶ月間、延々と机に座りノートパソコンの鍵盤を弾き鳴らしていたせいで、首と背中を痛めた。

酒も煙草も阿片の類も遠ざけていたかわりに、飲食の回数は無駄に増えて、おそろしいほど醜く肥え太っている。

視力は落ちて、虫歯は進み、医者にかかれば死にかけた人の体温に近い、などと診断が下る。

花粉が粘膜を爆撃したかと思えば、金属アレルギーがにぎやかに皮膚を溶かして、あらゆる病状をてきめんに治癒するという素晴らしい軟膏を買う金を人に借りて石焼ビビンパなどを喰い、どうにかこうにか生き延びる。

人生に起きた異変に軟膏を塗りたくるだけで、春の日々が過ぎていく。

 

茨城で間借りしていたアトリエを離れて、拠点をふたたび東京に置いて三ヶ月。

ようやく人間らしく暮らせるように家財道具も集まってきたものの、夏を控えて冷蔵庫がないのがやや不安ではある。

猫二匹をひきとって暮らし始めたが、まことに落ち着きがない生き物で、病的に神経質な私は早々に彼らとの同棲解消が頭をよぎる。

けれど、住居はすでに猫仕様にあちこち改造した後であり、私が外に出ればよいだけの話だと割り切って、1日の大半の時間を路上や公園やネットカフェで横になるなどして過ごし、家賃のかかる洒落たワンルームは猫たちにそっくり明け渡している。

ネットカフェの女子便所に貼られた、「住居喪失の危機にある人へ」と題した行政のポスターを毎日読み耽っている。

 

この春に仕上げた小説というのがなかなかの傑作らしく、人が褒めてくれる。

先生、などと私を呼ぶ人もある。

けれど、それだけのことだ。

家族は相変わらず私を蔑み、金も稼がず暮らすロクデナシだと責め立てる。

窓を開ければ、そこには祝福を受けたように花のつぼみがはじけている。

つよく風が吹いて、窓際に立つ私の脳天へと花粉を浴びせかける。

己にできることを淡々とやるしかないと割り切りながら、それでも凡庸な人たちへの羨望をやめることができない。

芸術はまことにすばらしいが、それだけしか出来ないとすればその境遇は不遇であり、その不遇を才能と呼べるのは他人事であるからで、当人にしてみれば大変に悲しく残念極まりない不幸なのである。

 

久しぶりに会った別れた夫から、勤めをしながら細々と創作をすればよいではないか、と至極まっとうな提案をされた。

それが出来たならどんなにか良いだろう。

切望しても、できない人間もいるのである。

何度も頓挫したあげく心まで病んだのだから、いい加減にそれが無理な人間もいることを許してくれてもよさそうなものだと春と夫を呪いかける。

けれど一度は元夫の楽観を残酷に思ったが、それが大方の人の常識的な意見であろうし、わたし自身でさえそういう人間が側に転がっていたら眉をひそめることだろう。

人間はどこまでも自分の味方で、都合よく常識を変形させて生きているものだとしみじみとするのが、いつからか葉桜の時期の習慣となりつつある。