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いつの世も愛は事件。大島渚『愛のコリーダ』

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大島渚監督の「愛のコリーダ」を観た。

 

かの阿部定事件をモチーフにした本作は、日本的な極彩色の様式美を随所に散りばめた絵作りと、それを額縁のように引き立てる廓遊びの和の音色が美しい。

 

好奇をそそる男女の行く末を見届けるのにまったくふさわしい舞台装置のしつらえに、私はしばらく時間を忘れ、ずいぶん深く引き込まれた。すみずみまで行き届いた良作であった。

 

あまりに有名な事件を映画化したものなので、あらすじなどの詳細は省くけれど、私はこの映画を見た後、「愛」と「所有」ということについて、しばらくもやもや考えている。

 

男と女の間に生まれた「愛」の中には、お互いを所有し合う、相手の身も心も自分のものにしたい、という心の仕組みが少なからず、いや、大いに働くものだと私は思う。

 

しかし、個別の肉体と精神を持っている人間同士である限り、互いを完全に自分の所有物とはできない。

しかし、その不完全さこそが「愛」の悩ましい落ち度として、あるいは永遠に完成形を得られないからこその魅力的な建築物として、眼前にそびえ、我々を魅了し、ときに失望や落胆に襲われながらも、そこに自分の命のすべてを注ぎ込みたいような、激しい情熱をかき立てるのだとそのように思う。

 

愛のコリーダ」において、主人公の定は愛人である吉蔵と際限なくセックスを繰り返し、己の欲望に応えてくれる吉蔵の身体を片時も離したがらない。

 

そんな定を甘やかすように、吉蔵は定のねだることを、まるでそれが自分自身の願いでもあるかのように許し、叶え続ける。

(定の願いの多くは、はじめは情事にまつわる実に他愛のない内容だが、やがて男の心を試すための挑戦的なリクエストとして徐々にエスカレートして、実に過激なものになっていく)

 

結末は周知のとおり、情事の最中に吉蔵を絞殺した定が、男の局部を切り取ったところで映画は終わる。

 

激しい愛の物語、とそのようにまとめることもできるし、愛人への執着に狂った女の行き過ぎた痴情事件、と捉えられなくもない。

 

しかし、映画を観終わってしばらくたつと、私は定という人にどこか悲しい妬ましさを感じている。それは単純な同情ではなく、憧れとも違う。やはり悲しさの混じった妬ましさ、という言葉こそがふさわしい。

 

定にとっての愛のかたちとは、文字通り吉蔵の肉体を自分だけのものとすることであったように私は思う。

妻のいる吉蔵に対して恨み言を言うときも、夫婦という彼らの社会的な関係性にではなく、吉蔵との肉体関係を半永久的に保証されている女の肉体に対する猛烈な嫉妬。

そのような印象を受けた。

 

事件後に警察に逮捕された阿部定の供述書によると、吉蔵を殺した後の彼女は「肩の荷が下りたように気持ちが楽になった」という内容を述べたという。

 

彼女は、生きている限りいつ心変わりするかもしれない吉蔵の精神を死によって肉体から削除したのだ。

 

そして、「愛」の証拠品として差し出された吉蔵の肉体が彼の気まぐれか何かによって、自分の手からいつ奪われるかも分からない。

そんな不安感から、定はようやく解放されて、安心したのに違いない。

そのあたり、定の心境はちょっとわかるのだけれど、自分だったら心中の方がいいかな~なんて思った。

 

さて。

総じて私は「愛のコリーダ」という作品で描かれた一組の男女の関係を、常に距離感をもって、自分とは違うものを見て生きている人間のお話として、呆然と眺めることしかできなかった。

 

私には定のように白痴じみた情欲への信頼もなければ、吉蔵のような人生への諦観もない。それどころか、「愛」という名のもとに他者を占有したいと願うときの自分を、どこか浅ましいものとして見下すような、半端な賢しらさだけを頼みに生きている。所有し合うことを願いながら、どこかその不可能に自覚的でいなければ愚かしいという醒めた気持ちが拭い去れない。

 

だからこそ私は、定という人に対して、本来不完全な形でしか存在しえないと思っていた「愛」の対象を、肉体という物質に限定させることで見事に完成させてしまった稀有な人間であることにある種の嫉妬をおぼえたのだ。

 

そして、彼女に成りかわることなど自分にはできないという実感と、これからも不完全な「愛」の仕組みの中でもどかしく生きていくしかないという憂鬱とに、ひしと掴まれ、まだ苛まれている。嗚呼。

 

大島渚監督の作品は初めて見ましたが、破瓜の相手がこの作品で非常に幸運だと思いました。

そしてセックスシーンにぼかしがガンガン入る国内盤ではなく、海外無修正版で見るのがおすすめです。

最果タヒさんのこと。『君の言い訳は最高の芸術』

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この人も私と同じように、靴下をはいたり、歯を磨いたり、だれかと待ち合わせをしたりしながら生きているのだろうか。

 

食パンを焼きすぎたり、傘を忘れたり、ああなんか今日の髪型はイマイチ、とかそんなことを考えたりするんだろうか。

 

するんだろうな。

おそらく。

 

日常生活における行動様式の差異なんて俯瞰すればごく微々たるもので、最果タヒさんというこの人もまた、私やほかの人と同じように衣食住の枠組みの中で人間らしく生活を送っているのだろう。

 

けれど、そう分かってはいてもまだ私は、この人の存在がまるでフィクションに思えてしまう。

 

何かの間違いのように、夢でも見ているように感じてしまう。

閉じていた瞼を開いたら、はい夢でした、と誰かに言われるんじゃないかと、ちょっと怖くなってしまう。

 

だってこの人、天才だから。

 

天才的な文章、に出会っても。

この人は天才だったんだろうという死んだ人間の名前を知ることはあっても。

こうして自分の人生の中でリアルタイムで「生きた天才」に出会うことって実は奇跡に近いんじゃないだろうか。

 

最果タヒさんの詩集を初めて手にした時。

 

私はまるで地動説の終わりを宣言されたみたいだった。

 

見えている景色は変わらないのに、これまでの大前提がくつがえってしまう。

それは清々しいショックだった。

 

ああ、ここで世界は終わって、また新しく始まるんだな。

 

最果タヒの詩をおりなす言葉たち。

その組み合わせ。

語られる内容は、まだ埋まっていない世界を言葉で描出しながら、同時にまだ語られていない世界をふわりと示唆する。

 

それらをアウトプットする最果タヒという未知のOSの前に、私は観念した。

自分が得意になって使いこなしていたPCが突然古臭く、恥ずかしいものに思われて、思わず自分の言葉をすべてしまいこんで沈黙した。

 

「君の言い訳は最高の芸術」はエッセイ集、となっている。

けれど実際は、最果タヒの作品、と呼ぶ以外ふさわしい呼び名が見つからない。

そのくらい、この人の紡ぐものたちには、エッセイだとか詩だとかそういう区分けが似合わない。

 

だって天才なのだもの。

 

天才のために。

私たちはその作品を語るための新しい呼び名を発明すべきで。

そして、そんなことくらいでしか天才への畏怖を表すことができない。

美しいって、なに? 長野県東御市、天空の芸術祭

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長野県東御市(とうみし)で行われている「天空の芸術祭」に行ってきた。

シェア・アトリエ「miraiva」のプロデューサー、mayuchapawonica・まゆさんの作品を観るべく。

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まゆさんが相棒のカヤノヒデアキさんと手がけていたのは、『名もない農家』という場所の一室を使ってのアート作品『空と海の家』。

 

場所は、芸術祭会場である長野県東御市にある民家の一室である。

 

地元の民家である『名もない農家』はもともと廣田美和子さん(通称・かあさん)の運営している場所。

訪れる人が、ふだん背負っている肩書きや立場、役割など社会的な文脈をいったん「off」にして、しがらみを解かれたニュートラルな自分でいられる場として、『名もない農家』はデザインされている。 

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そして、『名もない農家』を通じて個々人の内側に起こる変化、発生するコミュニケーション、それらの器として機能する『名もない農家』がどのように育っていくか。

 

その変遷自体を作品と位置づけることによって、関わる人すべてが『名もない農家』の一部となっていく。

『名もない農家』は日々その肉体を更新し続ける生き物のようだ。

 

今回、その生き物にまゆさんとカヤノさんは作品『空と海の家』を肉付けした。

更新された『名もない農家』は新しい部屋の完成直後からより深く呼吸し始めていた。

 

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芸術祭と呼ばれるイベントには、色々な役割がある。

地域振興だったり、人集めだったり、その土地のブランディングだったり。

そこで展開される作品も、だから様々だ。

 

私は長野にいる間、いや長野に行くと決める過程で、自分にとって、社会にとって、「アート」ってそもそも何、という素朴かつ本質的なクエッションに向き合う時間が多かった。

 

そこに美しさを孕むもの。

 

それが私にとってのアートの定義なのだけれど、その「美しさ」は単純に「造形的な美」「機能的な美」だけではない。

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私にとっての「美しい」は、それに触れたときに「自分が生きていることを思い出してしまう」ような力であり、さらに言うと「生きていること、それ自体が恩寵である」ことを気づかせる、そんな力のことだ。

 

だから、作品がぱっと見にはグロテスクであったり、造形的な美とかけ離れていたりしても、その作品に、はたと気付かせる力が備わっていれば、私はそれを美しいと思うし、アートだよな、と認識する。

(そういう意味で、さいきん私はすべての人がアーティストだと思うようになったし、逆にそう捉えることによって、かたくなに思えていた世界が溶けたり、人と人との境界線はお互いを隔てるものではなく、両者をつなぐものなんだな、と愛おしくなった)

 

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ひとりでも多くの人が自分の中に「アート」という概念を取り入れることで自由になれるんじゃないか。

いろんなものを「溶かし」、「混ざり」、別のものになったりできるんじゃないか。

 

そうなったら、「絶対」だとか「すべき」だとか「やっちゃいけない」みたいな息苦しいムードはゆるんで、「たぶん」とか「やってもやらなくてもいい」とか「むりすんなよ」みたいな余裕が生まれるんじゃないか。

そんなことをすごく思う。

 

アートや美術がマニアックな趣味の世界での鑑賞物だった時代はもう終わって、あまねくすべての人間が食べることや寝ることと同じように、生きるための道具として当たり前にアートを使う。

 

そういう段階にきているんじゃないか、人類は。

そんなあれこれを考えた長野への旅。

「巨大な雨の読書会」、その1

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名付けることは、存在の片棒を担ぐことでもある。

名を与えられた物は、者は、ものは、ものたちは。

おそらく自らの呼び名の来歴を知りたがるであろうし、仮に問うて名付けの由来について何がしかの回答を得たとすれば、繰り返しその中身を参照しつつ、生きていくのが自然なことだろうと思う。

 

それがゆえに名付け親というのは、産み落とすことをまた別の角度から行い、誕生したる不案内な魂がふいに命の文脈の網の目から転がり落ちて迷わぬよう、しかと座席に固定する。安全ベルトをしつらえる。

そんな役割を担っているように思う。

 

薄暗い土がぬかるみ続ける地上にて、今日も秋は営まれている。

 

名付けについてふと考えるに至ったのは、新しく読書会を始めるにあたり、その名を用意したことによる。

 

巨大な雨の読書会、というのがその名だ。

 

いったいどういう意味なのですか、という疑問の発生を良しとし、滞在先の古民家にて私が執り行うであろう読書会の呼び名として、早速これを広告した。

 

不可解な言葉の組み合わせに疑問符は付き物であり、私のような人間はその誤解によって生かされているふしがある。 

 

誤解は人を魅了して、燃料を足さずとも走る車のごとく便利だ。

大いに誤解を使いながら生きていこう。常常そのように思っている。

生じた疑問符について申し開きのように説明を付け足すことは、だから非常に野暮で無粋なことである。

そのように私は考え、名付けたきり、「巨大な雨の読書会」についても平静のごとくに説明を控えていた。

 

ところが名付け終えて明くる日、親愛なる人が私に問うた。

いったいどういう了見で、この名を与えて澄ましているのかと。

聞かれるままに名付けた名の来歴と説明不足の因果をその人に答えると、それをそのまま広告しなさい。

そのように勧めてくる。

 

野暮を強いられるのはきらいです、と私が抗うとその人はさらに言う。

名付けの由来を広告すれば、誤解はもっと走るでしょう。

そうなって、困ることがあるのですか。

困るよりも潤うでしょう。つけたその名が光るでしょう。

 

たしかに私は困らないのであった。

何のことはない。

名付けた呼び名の来歴はそのまま私の思想そのものでもあるから、それを人前に晒して私事なる想いをいちいち見せびらかしている。

お調子者だと噂されることが、恐ろしいだけの話である。

 

名を得て道に迷わぬように、というのが親心であるならば、その名付けの工程について披露を惜しむ理由がどこにあろうか。

それでようやく、慣れぬことをしてみようという決心がついた。 

作品名:「ときどき、透明になる家」

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昨日10月8日にアート・イベント「ときどき、透明になる家を作ろう!」を開催し、ぶじに「ときどき、透明になる家」が完成しました。

完成した作品は展示作品として、下記の場所にてご覧いただくことができます。

 

「ときどき、透明になる家」展示地

茨城県つくばみらい市南2135 フロンティアファーム敷地内

 

ときどき透明になる様子をご覧になりたい方は、どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。

 

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「ときどき、透明になる家」制作時の様子。

シェア・アトリエ「miraiva」

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夏が終わる頃、踊りながら描きたいと思った。

 

ダンスと絵を描くことはあまりにも似ているから、わたしはそれを一緒くたにしないと気が済まなくなって、旅先の人や一度きり会った人や私を生み育てた人にまで、大きな大きなキャンバスをください踊りますから、と連呼していたら、魔法のように願いは叶い、わたしはいまアトリエと住む場所とを与えられて、太陽がのぼって沈むまでずっと油と顔料と音楽とを混ぜて、服を捨て、はだしで踊りながら暮らしている。

 

滞在先は、「miraiva」というシェア・アトリエだ。

「表現」といういかようにも伸びて幾分融通の効きすぎる枠で括れるものを広く受け入れる、行き場ないアーティストのための場所。

 

ときどき、私の見知らぬ世界の音楽をたずさえた人が、無垢な眼差しで人を石に変える人が、リアス式海岸のようにいくつもの波を抱え込んだ人が、夜更けにやってきて、私の中を流れる透明な河に、色を、ひかりを、無尽蔵に注ぎ入れる。

 

泡立つ河の流れは、こみあげるように氾濫し氾濫し、あふれだすもので今日も私は色を塗っている。

あなたにも来てほしい。わたしという河にあなたの持つ色を、光を。

世界が滅びてもいいなんて嘘つき。

f:id:niga2i2ka:20170930184004j:plain 世界なんて滅びてもよいの。 あなたとわたし、ふたりきり残して。 さっさと滅びてしまえ。 余白だらけになってしまえ。 完璧も片手落ちも曖昧も不透明も、 意味たちはすべて光になってしまうのが正しい。 風のように賢いあの人は。 風のように去ってしまうあの人は。 こんな祈りをきらうかしら。 こんなわたしを。 世界が滅びてもよいなんて、 そんな言葉は嘘です。 あなただけが欲しいように、 願うわたしは嘘です。 わたしたちは結ばれたのに、 その結ばれ方が気に入らない。 わたしたちはほぐされたのに、 そのほぐし方が気に入らない。 ただそれだけのこと。 前髪の波立ち方に苛つくみたいに。 わたしはいま少し、 ご機嫌じゃいられないだけ。