ようこそ人類、ここは地図。

私たちにおける、素晴らしい座標を

20年間のドライブ、私たちの廃墟へ。

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週末を利用して、弟と夫と三人で茨城へとドライブをした。

かつて父だった人とその新しい家族、そして私たち姉弟の祖母が暮らす田舎の家を訪ねるためだ。


父と会うのは数年ぶりのことで、4年前に夫となった相手を引き合わせることに私はあまり気乗りがしなかったが、今回は祖母の顔を見たい気持ちの方がまさって、こういうことになった。来年にはもう90歳になるという祖母の齢を考えると、このまま会えないでお別れがきてしまうのでは、という焦りもあった。少し前にカメラを失くしていたので、私は仕事帰りに量販店を回り、新しい型のカメラを用意した。

その土曜日はよく晴れていた。
開通したばかりだという栃木と茨城とを東西につなぐ高速道路から車が一般道に入ると、同じ北関東に分類される土地にしては、その空気がどこか違って見えた。どちらも同じくらい田舎で、似たような種類の閑散とした景色。それなのに不思議だ。車の窓ガラスに額を押し付けもたれながら、なぜだろうかと考える。
理由はすぐにわかった。私たちを乗せた車はもうずいぶんと海に近い場所を走っていたのだ。


私が育った栃木県には海がない。潮風の運ぶ、あの海の香りがまるでない。群生する木々の面立ちも波打ち際とではかなり違っている。そういうことか。助手席に座ったまま視線を上げると、日立港まで何メートル、という道路標識が見えた。

それからしばらく走ると、前方に見覚えのある昭和シェルのガソリンスタンドが見えて、隣に色褪せたボウリング場の建物が並んでいるのが目に入る。巨大なボウリングのピンが二階建ての建物よりも高くそびえていて、いやでも目を引く。しかし、そのふたつの建物の壁面はかさぶたのように大部分が剥がれ落ちていて、それがもう使われていない牧歌的な廃墟であることを知らせている。


ねえ、あたしこの昭和シェル知ってる。このボウリング場知ってる。この道よく通ったもん。
運転席の弟にでも後部座席の夫にでもなく、私はひとり興奮気味に声を上げる。海で遊んだ帰りに、よく父の車で通っていた懐かしい景色。その面影がまだはっきりと残っていた。

やがて、祖母の家に向かう曲がりくねった道に入る。近くまで散歩に来ても、子どもだった私たちは怖くて絶対に足を踏み入れなかった崖みたいに急な下り坂。その坂を左に見てカーブを右へ曲がる。もうすぐばあちゃんの家が見えてくるんだ。幼い頃に記憶していた順路が、微細な変化を遂げた姿で次々に現れる。私は現実の景色に記憶の中の映像を重ね、その過不足のない完成フィルムを上映しながら、窓の外に向かって何度も何度もカメラのシャッターを切る。移動する車窓からは、流れるように乱れた写真しか撮れないと分かりながら。
舗装されたアスファルトの道に蓋をするように繁っている大量の樹木。
うわ、ここぜんぜん変わってない、と弟が驚く。


見覚えのある、思い出として何度も眺め回した丘の上に祖母の家が見えて、かつては父が運転する赤い車でがったんごっとん揺れながら這い上がった急な砂利道を、いまは髭をはやした弟のハンドルさばきで私たちは、奥へ奥へ斜面をつき進む。

もうずっと昔に私の父だった人。そして、今でも「お父さん」と、その呼び名でしか呼べない人。その人がいつものジャージ姿で出てくると、私たちは友達のように挨拶を交わす。よう、どうだ元気だったか。まあね。そっちも元気そうじゃん。あ、この人、これ、あたしの旦那。やあ、どうも。はじめまして。昼飯にしよう。腹が減ったよ。
挨拶をすませ、祖母の家の三和土にブーツを脱いで、お邪魔しますと口にする。静かだ。ばあちゃん、と呼びながら家に上がる。茶の間に祖母が座っている。ばあちゃんだ。あの頃よりもずっと年をとっている。私はその姿を見れただけで、もう十分だと思う。

父の新しい家族はそれぞれの所用で不在であった。
もしくはそういう日があえて選ばれたのかもしれなかったが。


私も弟もそして夫も、それを知ってずいぶんと気が楽になった。もしそれが父の意図的なはからいであったのならば、私たちにとってそれ以上気の利いた「おもてなし」はなかった。こいつらは誰なのだと不審そうに見られることも、気まずい挨拶を交わし遠慮することもない。今日の私は、娘であり、孫であり、姉であり、妻である。人物相関図のどこを探しても、私を疎ましく憎む人間は決して見つからない。私の連れ合いである夫にとっても弟にとっても、それは同じことだった。
20年分古くなり、小さくなった祖母は、懐かしく耳になじんだ茨城なまりのあの声で私の名を呼び、花嫁装束を身につけている数年前の婚礼の写真に目を細める。娘とその結婚相手の男に向かって、どうもおめでとうございます、と父が言う。

出前のチゲ鍋うどんが届いて午餐となり、引き続き父の司会によって各自が近況報告をすませ、私たちは敷地の中にある先祖の墓参りに出かける。子どもの頃は山ひとつ越えなければたどり着かなかったはずの墓場があまりにも至近距離にあり、記憶との落差に姉弟そろって愕然とする。
あれが柿の木で、栗の木で、あのへんに生える筍はけっこう美味いんだ。
父が庭を案内する。もう葉の落ちた木々の中に、晩秋の色彩が日没を受けて輝いている。父と弟と、私の夫と。三人の男たちが秋から冬への渡り廊下をぶらつきながら、何でもない話をして、それぞれの人生を出逢わせている。

もっと気まずくて、もっとぎこちなくて、すぐにでも帰りたくなるような、そんな雰囲気を思い描いてやって来たのに、やはりそこは何度となく夏休みを過ごした私の「ばあちゃんち」で、いまは父の新しい家族のために多少の建て増しはなされているものの、じいちゃんの部屋に貼ってあった「宇宙戦艦ヤマト」のポスターも、たくさんのトロフィーやカップがしまわれたガラスの戸棚も、収穫した野菜が籠に入っている薄暗いお勝手も、フルマラソンを走る父のゼッケン姿の写真を大きく引き伸ばした額縁の並びも、全部が私の思い出の中にかつてあり、そして今もこの場所で続いていて、私のことを覚えてくれていたように、何も変わっていなかった。ばあちゃんは私のばあちゃんで、その事実は何も、何一つ、変わっていなかった。ばあちゃんは皺が増え、小さくなり、もはやその手料理を食べることはできなかったけれど、それでも笑い話をしようとしてこらえきれずに笑い、誰にでも蜜柑を勧め、こたつには入らず、染めなくてもいつまでも黒い髪を隠すように手ぬぐいをかぶっている。私にとって唯一のおばあちゃん。

私が少女をやめてから、もう何年がたつのだろう。
所帯を持ち、賃金労働で日銭を稼ぎ、高齢の祖母の死をまもなく起こる悲しい未来として恐れる程度のあたりまえの分別を身につけてはいるけれど、それでも華奢な置物みたいになったばあちゃんが冗談を言えば遠慮なくそれを笑い、聞きたいことを尋ね、何のわだかまりもなく、隣で蜜柑の皮をむいて、ゴミ箱にその皮を投げている。何も変わっていなかった。私が怯えていた巨大な変化など、そこには何一つ見つからなかった。
勝手にあると信じ込んでいた透明なしがらみと臆病風によって、私はここへやって来るのに、20年あまりも費やしてしまった。
けれど、その20年という時間が長かったのか短かったのかは、私にもよく分からない。

帰り道、高速に入る前に私たちは寄り道をした。
とある場所を目指して。
弟の銀色の車が海沿いの道を走る。窓を開けると冷たい風があっという間に皮膚を冷やす。すぐそばに引き締まった冬の海が、鉄色の薄い波をつくってところどころで持ち上げているのが見える。瀕死の生き物のように波は低く、海自体は決して動かずにいる。
東京からたった3時間足らずのこの場所までに、20年分のどんな障壁があったというのだろう。果たされてみればあまりにも簡単で、つまらないことのようにも思えてくる。


見えたよ、と運転席から弟の声が言う。
白い灯台と、そのふもとに広がる芝生の公園。
寒さのせいなのか人影はなく、風に煽られたブランコだけがさびしく揺れている。
かつてそこには真っ赤なタコを模したすべり台やいろいろな遊具がたくさんあった。夏休みに祖母の家を訪れるたびに、私たちは父に連れられて、この公園でよく遊んだ。勝手に「タコの公園」と名前をつけて親しんでいた。
何年か前、海が見たいと言う恋人を連れてドライブに来た弟は、偶然にもそこがかつて遊んだその場所だということを発見したという。
いま大部分の遊具は撤去されて、公園の主である赤いタコのすべり台は塗装がはげてファンシーな桃色へと変化してはいたが、間違いなくそこは、私たちの思い出の「タコの公園」だった。
防砂林のすぐ向こうに見える冬の海。
子ども用にしてはあまりに急なすべり台の斜面を登ってタコの頭の部分に立つと、私は眼下に海を見下ろしてみる。
クールベの描いた「秋の海」そのもののような、黒々と横たわる液状の大地。その中に、あまりにも繊細な白いしぶきが列をなして、陸地へ向かって動き、音もなく消えてゆくのが見える。
名も無き水泡の誕生と死。その儚さ。
それを見てしまったせいなのだろうか。
私の目は泣き、潮風の中に立ったまま、悲しみとも違う何かが幾度も幾度も込み上げてきては、行き場なく涙となって地面へと落下する。

人生はいつも絡み合い、こんなにも厄介な回り道をしなければ、ほどかれない忌々しい知恵の輪だ。そんなふうに私はいつも恨めしく思い、うんざりしながら生きるしかないのだと諦めていた。
けれど、このパズルは自力で解きほぐすものではなくて、いつか溶かされていくものなのだ。
車が走り出して、白い灯台がぐんぐん小さく見えなくなってしまう間、私はその姿をカメラのレンズ越しに振り返りながら、そう思っていた。
入り組んで錠のかかった人生のパズル。
自分の心の温度がそれを溶かしうる融点にまで近づいた時にはじめて、それはチョコレートのように一瞬で溶けて、柔らかな消失をとげる。わだかまった感情の棘も、悲しみに似た質量も。温かな体温の中になくなっていく。けれど、なくなったように見えて、実際はそうじゃない。私自身の一部として、これからも共に生きていくのだろう。
何かを許し、乗り越えるということは、そういうことなのだと私は初めて知った気がする。

母や私たちと別れた後に、父は南極以外の大陸で行われている世界のマラソンレースをすべて走破し、今も走ることを生き甲斐にして日々を暮らしている。家庭生活のことについてはどうやら相変わらずピントがうまく合わないらしい。そういう父もまた離れて眺めればとても面白い人間だ。父の偏った生き方を私たちは車の中で笑い飛ばし、過去をジョークに変えて、そして色々なことがもうすでに、ほろ苦い味わいとなって心に溶けていることに気がついていた。


車は闇の中をゆるやかな灯明となって走り、私は私の大切な廃墟をカメラに納め、そして私たちの暮らす現在地点へとやがて帰りついた。

 

今夜、音楽にのせてメルシーを。

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嵐のように押し寄せる出来事はたましいを運び、また作ること、書くこと、が現在進行形の時間軸とぴたと寄り添う日々が始まっています。

物言うことが怖くなり、雲がゆく速度も、風がつくる模様も、この目には映らない数年間がありました。

そのすぎた歳月の中では、肩や首がこわばり、神経はねじれて、愛する人がわたしの世界からずんずんと去っていってしまうのです。

こわい、さびしい、と胸を掻き毟って、ひとりで百年泣きました。

今は少しずつ、もう大丈夫。

音楽をかけて、今夜は陽気に踊ります。

あなたへのメルシーを、ステップに刻みながら。

今日も読んでくれてありがとう。

村上春樹×市川準『トニー滝谷』例えば漫画のコマ割りをどうやって映像化するのか。

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けっこう映画化されている村上春樹

 

村上春樹の小説は、短編・長編ともに何作か映像化されている。

私も全部を観たことはない。

映画館で観れたのは、『ノルウェイの森』と『トニー滝谷』だけだ。

 

それでもネットで調べてみると、1981年にはデビュー作『風の歌を聴け』が早くも映画化。2008年にはアメリカで『神の子どもたちはみな踊る』を原作とする映画が公開されている。

 
「結構ハルキは映画になっているんだな」と意外に感じる。


というのも、私の中で村上春樹の作品の魅力はあの文体によるところが大きいので、文章から離れたところで村上春樹を楽しむという発想がないし、そもそもそういう成功例をイメージしにくかった。

 小説や漫画の二次元作品を映像化して大成功!という例もあるにはあるけれど。

そしてそういう大成功にはブラボー!最高!と大興奮するのだけれど。

 

正直なところ文学作品を映像化したもので個人的にオッケーなのは、ものすごくマイナーな原作で「あ、あの映画って原作あるの」みたいな作品か、原作はあくまで下敷きくらいの感じに使って、あとは監督が肉付けをガンガンやったり、ごっそりエッセンスを捨てたりして、もはや原作とは別物、みたいなパターン。

そして『トニー滝谷』という作品は、私にとってそのどちらでもない。

だからこそ、とても特別なのだ。 

 

映像化の難しさ

 

それにつけても映像化の難しさよ。と思う。

制作会社の人間でもないのに、頭を悩ませる必要はないのだけれど。

だけど、いちユーザーとして、これだけ沢山の実写化された映像作品を目にしていたら素人でも思ってしまうよね。

「あ〜どんなに面白い原作があっても、必ず面白い映画(ドラマ)ができる訳じゃないのね」

みたいな事を。


映像化のむずかしさって、どういうところにあるのか。

映像素人ながら考えてみると、それは二次元作品と四次元作品、それぞれを成り立たせている文法の違いをどう乗り越えるか、という事に集約されるように思う。

たとえば漫画だったら「コマ割り」というのがある。

その「コマ割り」が読み手にとっての緩急であり、その作品のリズムを作り出す大きな要素だ。

映像化の難しさというのは、じゃあその「コマ割り」という漫画独特のフォーマットを映像に置き換えるとしたらどうするの、みたいなところで発生する問題なのだと思う。

そこを雑に扱うと原作の魅力は圧倒的に損なわれるし、そもそも映像にしなければ良かったじゃん、みたいな結果になってとてもアンハッピーだ。


そんな中、市川準監督による映画『トニー滝谷』は、小説と映画という2つのフォーマットの違いを意識的に演出として際立たせて成功している。

 

村上春樹の文章を市川準が書き直す。


映画の原作は『トニー滝谷』という短編小説。
日本では『レキシントンの幽霊』という短編集の中の一編として出版された。

淡くさみしい余韻を残す、美しい作品だ。
とてもざっくりだが、簡単にあらすじを紹介する。

 

幼い頃から孤独と親しんで生きて来た主人公・トニー滝谷
そんな彼がある日恋に落ち、束の間の結婚生活を手に入れ、長年の相棒だった孤独を手放す。
そして突然の妻の死とともに再び孤独と再会する。
しかし再会した孤独は、妻と出会う以前のそれとは面持ちが微妙に変わっている。

…とこんなお話。

 

このあらすじを元にオーソドックスな手法で撮ることもできただろう。
しかし、市川監督はあえて村上作品の文法や、村上春樹の語り口までをも自分の映像でリライトしようと試みている。

 

例えば登場人物を演じている役者が、自分のセリフのあとに台本にある「ト書き」を口走ったりする。

主人公の妻を演じる宮沢りえが登場人物として夫と会話しながら、

「…と彼女は言った」

と映画の外側からしか語り得ない視点でその状況を説明する。


そのシーンがあるだけで、『トニー滝谷』という物語の内側と外側が一瞬にして地続きになる。登場人物はその役でもなく、役を演じる役者でもなく、誰でもない誰かになる。それを観ている側に静かな混乱がもたらされる。

 

ナレーションでもないのに、映画の登場人物が突然作者の視点で語り始める、というのはかなり奇妙な状況だ。
しかし、映画『トニー滝谷』においては、そういったシーンの挿入が不思議と心地よい。

 

この心地良さは、どこから来るものなのだろう。

何度か『トニー滝谷』を見なおしながら、考えた。

そうして思いあたるのは、この映画が村上春樹の小説を映像化する、というその変換の難しさに対して非常に注意深く作られている、ということ。

つまり、市川監督が小説の文法を映画の文法に置き換えた時に「これは置き換えきれない」と判断した部分をあえてそれと分かる形で映画の中に残す演出をしている。(つまり置き換えきれない部分の把握が、結果的に置き換えを可能にしている)

 

文章でしか表現し得ないディテールやニュアンス。

それを市川監督はあえて映画の文法を崩して表現する、あるいは演劇的な手法を持ち込んで橋渡し役をさせる。
そこに原作に対する敬意、作り手としての誠実さとともに、映像におけるチャレンジングな気概を感じる。


さりげなく細やかな配慮や、それを「どうだどうだ」と誇示することなく、さらりとフィルムにまとめ上げる余裕。

それらを洗練、と呼ぶのだろう。

その洗練されたシャープなアウトプットが、観ている側にとってはストレスレスで、爽やかで、心地よい風だ。

 

主人公であるイッセー尾形宮沢りえのほか、ナレーションで参加している西島秀俊の声も『トニー滝谷』の世界に過不足ない輪郭を与え、かつ溶け込んでいる。

坂本龍一のピアノの音は、雨音のように静かに悲しく画面に降り続ける。
小説を読んだ人も、読んでいない人にも知って欲しい、もうひとつの村上春樹ワールドです。

飽きることは心の新陳代謝。

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ひととせの間に1つ2つ、何かに徹底的にのめり込んでは飽きる、という所業を爾来続けて生きている。

なかば人生を賭けなんとする、のめり込みのその勢いに、他人様はもうその道の玄人かそうでなくともそこに近しいものを目指して私がその後も現実的にひた邁進するのであろう、と感心と驚嘆とを結びあわせてはっきり予感を持つらしいのであるが、半年とたたないうちに当の本人がその猛烈な興味・実践の記憶を白紙がごとく脳から消し去ってしまうので、こちらにすれば久々に会った人からまったく自分の身に覚えのないドリームや野望の成果のほどを「あれはその後どうなっているのか」などと、さも大事めかした様子でもって尋ねられたりするものだから、なかなかに困るのだ。


そういうときにはまこと勝手と言われればその通りなのであるが、さも時代遅れの人間の話し相手をするときのように相手を見くびる気持ちなど兆しつつ、その存在自体も定かではない私の過去の壮大な趣味の顛末について他人事のように聞きあやし、遠くを眺めて時を数えるが常なること、なのである。

「飽き性なのね」と言われればそれまでのことであるが、ひとつのことに執心して続けることと、ある地点で満足を得たらばそれをもって良しと自然に心が離れることとを比べてみたとき、どちらかに軍配を上げるなど、たいへんに無意味なことである。


飽きず続ける人は1つの乗り物に乗り続けるのが好きなだけのことであり、飽きて次のことにとりかかる人もまた、色々な乗り物を渡り歩くことで新鮮で新しい喜びを好んでいる。

それだけのことだ。

だから本年、私は西洋占星術にたいへん凝り出したことについて、それが何か大惨事の前触れであるかのように眉をひそめる人もいるけれど、私は元来が飽き性であるからそういった予感の範疇にあるような大惨事は決して起こらないことはまちがいなく、しかしそうかといって着物柄物の流行り廃りを眺めるような感じで私の動向について「ああ、今年はそうきたか」と気にもとめない人に対しては、今度ばかりは分からないぞ、とその油断を戒める意味合いも込めて、いつも以上に熱心に天体の研究に耽り、よもや今度こそは、という一抹の危惧を与えたいなどとも思うこの頃である。

 

純粋電車行為におけるタブー

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電車に乗ると不思議なのだ。

本を読んだり、音楽を聴いたりしている人間はいくらでもいるのに、風呂に入ったり、熱心にラジオ体操をしながら電車に乗っている人間というのはまず見かけない。

また、ガムを噛みしだく・飴玉をなめ溶かす・ペットボトルのお茶をちびちびやる、などなど。
飲食行為はありふれた光景であるが、しかしそうかといって車内でスパゲッティナポリタンや軍艦巻きを食べ始める人間は稀有であり、もしそういう人がうっかり車内にいようものなら、我々は「なんて非常識な人だ」とビックリしてしまう。ナポリタンや米の上に盛られたイクラたちだって、「こんなところで食べられている」と好奇の目にさらされることは間違いない。

新幹線など長距離移動の路線はまた話が変わってくるが、あれは移動そのものが旅行だったり出張だったり何かしら純粋な移動手段とは異なる、一種のエンターテイメントもしくは休憩時間だったりする場合が多いので、単なる通勤電車とはまた別の尺度ではかるべきテリトリーとして、今回検討すべき対象からは除外したほうがいいだろう。

さて。

電車移動を純粋行為として定義した際に許される付帯行動というのは、一体どこで線引きがなされているのだろうか。

飲食ひとつとって見ても、食べていいものいけないものがあり、そのよしあしは個々人の許容範囲によって多いに変わってくる。クッキーはいいけどケーキはいけない気がする。ではマドレーヌはどうか。

むずかしい問題だ。

ある役者が言う。

「それは緊急性の問題っすよ!」

役者いわく、ある時、電車内でおにぎりを食べているカップルがいたらしい。おにぎりとかウィダーインゼリーとか、ああいう携帯食はまだ食べてもOKだという気がしなくもないが、その時のカップルどもがまるで公園で2人で楽しいピクニックみたいな「はいあーん」的な感じでおにぎりを食べていたのを目の当たりにして、「こんなところでおにぎりか!!」という腹立たしさが込み上げてきたというのだ。

「やつらは、こともあろうに楽しんでいたんですよ!」

つまり、電車内での飲食がお楽しみであってはちょっとまずい。周りの乗客から反感を買うというわけだ。

エネルギーを補充しないと倒れちゃいそう、
そんな差し迫った状況であれば電車内での飲食もやむを得まい、という暗黙の了解があるのだろう。
ただし、その黙認にもそれなりの「ポーズ」が求められる。

「忙しいんだよねぇ、この電車降りてすぐ走り出さなきゃならないんだ」

「寝坊しちゃって朝ごはん食べれなくて。だからちょっと今から小腹に入れます。」

やむを得ず感!

これが大切だ。

たとえば、電車の中で化粧をする女性はとかく非難の対象になるが、あれだってもう化粧しないと目と鼻と口の区別がつかないとか、そんな状態であれば誰もとがめ立てはしないだろうし、シャンプーしながら乗り込んでくる人間がいたって、電車よりも長い頭髪を抱えていれば、ああ家では終わらなかったんだなシャンプーが。と温かい目で見守るのが人情なのだ。

つまりは思いやる心。

そんなところまで思いやってられないよ、という「思いやり限界地点」に電車内の国境線は引かれている。

人間は定型文をはみ出すし、はみ出してます。

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どうして器や彫刻や、絵画、と呼ばれるものを人は愛でるのか。

合理性という観測地点から見れば、何の役に立つの、というその行為を人類史は延々と続けて、まだやっているのか。

ときどき、名画をそのプライスでしか鑑賞できぬ人に問われて、その人に何をどう説明するのがよいか、しないのがよいか、考えあぐねてふと黙る。

 

言葉への変換がひどくむずかしい感覚や感情。
あるいは、うまく言い表せない、他人への伝達方法が見つからないような、漠然と透明で、しかし自分の内側においてはありありと質量を感じられる「世界の手触り」のようなもの。
感覚未満の、さざなみが起こる直前の静まり返った湖面のような、かすかな予感をはらんだ、皮膚感覚。
「あ」と「い」の間の、どちらでもない、どちらでもある、そういう揺れを含んだ音。


そういう曖昧さや運動性を孕んだ情報を「効率的なコミュニケーション」はばっさり削除する。

ノイズと見なして、定型文は掬い取ることをしない。

「無駄のなさ」や「合理性」を優遇し続けるのが当たり前になると、私たちの世界は随分いびつな形に再構築されてしまうのではないだろうか。

時々そんなことを思って恐ろしくなる。

 

それは傍から見れば、色のない世界で生きているのと同じだ。

 

すでにある定型文だけでは、既存の言葉の組み合わせでは、私の心の中に確かに「ある」と感じるものを「ある」と証明できない。

「ある」ものが「ない」ことになってしまう世界では、息がどんどん苦しくなる。

それで時々ロジックやキーワードや定型文ではとても太刀打ちできないような、合理性の鋳型には落とし込めないような、巨大な夢の具象物、のようなものに触れたくなる、作りたくなる。

それは目に見えないから「ない」とされてしまうような色を、他の人にも見えるように、この世界に「あるよ」と教えることのできる証拠品だから。

 

だから巨大な彫刻と対峙した時に、圧倒されて言葉にならない感覚はとても正しい。

不快に感じるけれど目が離せない壁画の感想を、無理にひねり出す必要はない。


とりこぼされた世界の破片を、人間の手はちゃんと拾い集めながらバランスをとっている。合理性が極まるほどに、人間はそこから排除された魂の収拾作業をこつこつとやるだろう。

つまりは、そういうことなのだと思う。

 

家族、店じまい。

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ふたりの子どもたちが、家族という大きなひと塊から熟した実のようにほろりと巣立ち、アスファルトを持ち上げる緑が深々と繁る庭へと目をやれば、夢中でそこを駆け回っていた獣はうすく小さな白い骨の破片になって、もう動かない。

編み合わされた2人の男女の人生が、そこで古びて、そこに色をにじませて、今では死ですらも分かつことのできない、はっきりとした一本になったことを、20年近くかけて堆積した思い出の品々の中に、わたしは眺めた。

逃れたくてもがき、恨めしく憎んだその土地のことを、わたしの心は今でも故郷などという親密な呼び名でもって、慕うことができない。


けれど。


その土地の片隅でわたしたちが家族となり、より合わさって生きていた時間までをも疎む気持ちはもう起こらない。
かわりに、古びた食器棚や色あせたアルバムをたよりにしなければ自分の記憶の中にさえ、そうたやすくは見つからない、こまごまとした思い出の手触りが、夥しい品物や処分される家屋敷と共にどこか遠くへ、永遠に持ち去られてしまうのだという、そんな焦燥に似たさびしさばかりが、苦しいほどに胸に兆してくる。

この人は母として、この人は父として、ひとつ家族という縁を全うしてきたのだ。
そんなことを、年老いた娘も、年老いた息子も、言葉なくお互いに確かめ合いながら長い長い夜を過ごし、そしてまた自分たちの住処へと戻る。
雨は垂れ、空からは突然に稲妻が刺さる。