ようこそ人類、ここは地図。

ほたて、雨、しゃきーん。

触れたものを、さわれるものに。

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ふとした流れで、写真展へ連れていってもらった。

私の知らない、若手の写真家の方の個展。

 

まるでフィクションのように猛烈な暑さの中を歩きながら、緑で覆われた古く翳ったビルを探し当てると、そこは現実から切り離されたように静かで、時間はひた、と立ち止まっていた。

 

ビルの3階にある小さなギャラリーの窓から見下ろすと、すぐ目の前に小学校のプールが太陽の光を細かく砕いて反射しているのが見えた。

少し視線を伸ばすと、都会らしいビルの連なりが空を切り取り、その足元に流れ込んでいく車の流れが、川の水面のようになめらかに日差しを動かしている。

 

展示されている写真は、心象風景のような景色だった。

景色たちは薄い紙に焼かれ、透明なアクリスケースに閉じ込められて、唇をやさしく閉じたまま、そこに並んでいた。

 

すべてが、海辺で撮られたものだった。

 

砕けた石や砂や植物たちの中に、ペットボトルやタバコの吸い殻、脱ぎ捨てられたビーチサンダルが取り残されていた。

 

誰かがそこに居たという痕跡。

浜辺に残された人工物たちが、自分たちの来歴を忘れ、名もないただの物体になっていく途中経過。

その様子は、人の手によって生まれた品物たちの死であると同時に、すべての存在に拡大される循環の仕組みだ。

私たちも、いつかこんな風に死んでいく。

それはあまりにも自然な景色で、だからこそ淡い悲しさが滲んでいる。

 

 

まだ若い、写真家の方と少しだけ言葉を交わした。

 

撮るときは、自分の手で何かを配置することはしない。

訪れた場所で見つけたものだけ、もともとあった景色だけにシャッターを切る。

それが自分の中のルールです、とその人は言った。

 

ルール、という言葉を使っていたけれど、その決め事は彼の中にある生理なのだろうと思った。

自分の中に、はっきりと存在している世界の見え方。

それを写真を通じて、他者に手渡すために、形に「あらわす」ために、避けて通れない仕組みのことを言っているのだろう、と思った。

 

自分の心が触れた対象を、形なきものを、さわって、確かめられるものに置き換えること。

手応えのある何かに変換して、そこへ触れるための親切な、はっきりとした目印を設けること。

その変換の誤差を少しでもなくすこと。

何が誤差で、そうでないのか、見極めること。

それらをやり続けることもまた、「あらわす」人の生理であり、切り離すことのできないその人自身であるということを、まざまざ見つめながら帰ってきた。

 

すべての瞬間を透明なケースに閉じ込めて、何度も見つめ直したいような、眩しい時間だった。

 

..........

KazumasaHarada

「a Shape of Material」

@みどり荘中目黒

.........

 

空を壊す7月、生きていくために。

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7月某日、熱帯的日本。

 

春先から続いていた手強い不眠状態に、全面降伏することを決めたのが我ながらこの夏最大の英断であったと喜んでいる。

 

夜明けの新聞配達のバイクの音を聞きながら、寝れぬ寝れぬと悶々と苦しみ、のたうつ孤独な日々。

その長い長い暗黒時代が、ヨクネレール錠剤(仮)を就寝前にたった一粒たしなむと決めただけで、まるで切れ味の良いナイフですぱっと断ち切ったように、美しい終わりを迎えた。

 

健やかなる朝。

十全な眠りからの素晴らしい目覚め。

疲労は消え去り、まぶたを開いた瞬間からもうすでに人生は輝いている。

朝の光に目を細めながら、

口をついて出る駄洒落。

迷惑そうな飼い猫に向かって、くだらない駄洒落を連発。

うるさそうに去っていく猫。

それでも駄洒落をやめない私。

よく寝た人というのは、朝から上機嫌なのだと知る。

 

 

7月某日、アブダビ砂漠的猛暑。

 

暑いせいで外出が難儀である。

ひさびさにテレビをつけたら、きのうもきょうも熱中症で搬送される人がたくさんいました、と言っている。

どうりで。

散歩も買い物も命がけ。

世界は、そんな様相を呈している。

 

地球温暖化でいちばん心配されていたのは、たしか南極とか北極の氷が溶けて、海面が上昇し、陸地が水没する、とかそんな映画みたいなシチュエーションだったように記憶している。

しかし、

やってきたのは、この灼熱地獄だ。

未来予測には、やはり多少の誤差がつきものなのだと思う。

 

外に出るのはあきらめて、部屋の片付けをしていたら、ふと村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』が目に止まる。

 

私は一度読んだ本はだいたい人にあげてしまうのだけれど、この『ダンス・ダンス・ダンス』は何度も買い直して、そのたびに面白く読んでいる。

 

たまたま家にあったのは中古本だったせいか、紙はふるびて、フォントもとても小さい版だった。たぶん、視力検査でいったら、2.0水準といったところ。

小さな虫みたいな活字を、それでも果敢に読みふけって二日で上下巻を読み終える。

 

ぶっ通しで小説を読み続けると、なにか勢いのようなものが生じるのだろうか。

翌日、翌々日は全然読む気のなかったサマセット・モーム『月と6ペンス』をこれまたぶっ通しで読んだ。

小説の最後まで、月も6ペンスも登場しなかった。

 

気がつけば、家の食料がすっかり尽きている。

冷蔵庫を買って、家に置いている人は賢明だと思う。

 

 

7月某日、もはや形容不可能の暑さ。

 

弟と電話で相談し、実家との絶縁を決める。

これより先の人生、私はもう娘として、父母と交渉を持つことはないのだ。

 

決断するまで、私にとって愛する父や母と縁を切るということは、まるで世界を壊すような、おそろしい選択であった。

正確に言うならば、選択という形で視野に入ることすらなかった。

 

家族という形での人との縁や結びつき。

そこに意志的な別離でもって、ひとつ区切りをつけること。

葛藤の果ての諦念にも似た心境である。

 

しかし、たとえ親と子であっても、人と人である限り、絶対、というような縛りは存在しない。

 愛をもって関わることと同じく、愛をもって離れることもまた人の知恵と優しさである。

 

万が一の折の言付け役を引き受けてくれた弟が、私のそんな言葉を受け止めてくれたことが深く救いのように作用する。

 

酷暑を告げる天気予報を聞きながら、老いた両親がどうか息災であることを祈る。

ここは魔法使いの部屋、エアコンもばっちり

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 夏が来たので、毎日のように部屋の中でスプーンを振り回している。

 

金属製のスプーンを使用していることもあり、タンスや本棚を傷つけないように注意が必要。

これがなかなかに神経を消耗するが、止めるわけにもいかない。

 

それもこれも夏の暑さのせいである。

 

私の住んでいる部屋は、いわゆる、ロフト、というものがあって、それが空間を二つに分けている。

 

地上と、ロフトと。

天井はさらにはるか上空にあって、雨風から生活を守ってくれている。

なんとも頼もしい。

私の背丈がこの先いくら伸びても何も心配はいらない。

そんな余裕を感じさせる天井高である。

 

しかし、ジャンプしても絶対に手が届かない天井の電球のつけかえは、実際けっこう命がけだったりもする。

椅子を上下にふたつ重ねた上に、墜落しないよう上海雑技団的なバランス感覚を駆使して、電球をくるくる入れる部分から出てくる変な黒っぽい焦げかすみたいなものを顔面に浴びつつ作業しなければいけなくて、高い天井も考えものだよ、と肩をすぼめてみたりする。

(ものだよ、という口調はちょっとちびまる子的だ)

 

ロフトの広さは、平均的なロフトよりもだいぶ広い。

平均的なロフトというのは、ちょっと荷物おけるスペース、くらいの。

おしゃれな押入れ的な、そんな位置づけだと思うのだけれども。

 

うちのロフトは、だいたい人間がひとり、ふたり、住めるくらいの面積がある。

お布団は2組ほど敷けるし、寝返りをがまんすれば三人くらいは横になれる。

天井が高いので、ロフトでしゃきーんと仁王立っても、頭はぶつからない。

可能性に満ち満ちているこのロフトは、種を蒔きたいと思えば畑だって始められるし、水をひっぱってきてボートでも浮かべたら、吉祥寺・第2の井の頭公園として、なかなか繁盛を極めるかもしれない。

 

そんなロフトが私の寝室がわりというか、屋根裏部屋みたいな落ち着く良い感じのスペースになっている。

ロフトの端っこには上り下りするための木製の梯子がかかってたりなんかして、なんかもうメルヘンだ。

 

ちょっと横になって本を読もうかしら、なんてサンドイッチと麦茶を片手に梯子をのぼったり降りたり。

飼い猫たちも炭酸水を入れたシャンパングラスを肉球に握って、にゃんにゃんと登ったり降りたり。

そんな光景はとても平成ジャパンの代物とは思えず、絵本の世界の住人さながらの日々を絶賛的に自画自賛して暮らしていたりする私なのだが、今年はそんなメルヘン・ロフト・ルームに引っ越してきて初めて迎える夏なのである。

 

夏。

 

夏といえば、

猛烈な暑さ。

しゃくねつ。

日焼けですら致命傷。

 

朝起きて窓を開けるたびに、顔面に熱い夏の吐息がかかる。

シューベルト「魔王」が夏の空に響き渡る。

私にとって、この夏はまさにあの「魔王」そのもの。

お父さん、お父さん、と吉祥寺中に響き渡る声で助けを連呼したいほど、部屋の温度は急上昇。

夜中に汗だくで目覚める。

めまいを起こしながら水を飲む。

一体いつから吉祥寺は赤道直下に場所を移動したのだろう。

そんなことを思う。 

 

ともかく。

これは、ただならぬことになったぞ。

私はおののいた。

こんなことになる前は、あれを使えばいいと思っていたのだが。

 

あれ。

あれというのは、そう。

文明の利器、エアーコンディショナー。

あだ名は、エアコン。

ときどき「マザコン」とか「糸こん」とうっかり間違えてしまうのだけど、それらとはまったく別の電化製品の方のエアコン。

そのエアコンを使えば、何のことはないと思っていた。

 

ところが、である。

 

かけてもかけても、

設定温度を下げても下げても、

ロフトつき我が家の上層部は猛暑のまま!

なのである。

おまけに窓がないロフトでは、換気もできない!

のである。

かくして、圧倒的に冷たい層と地獄のように蒸し暑い層。

室内の温度はその上下二層にきっぱり分かれてしまって、決して自ずからは混ざらない、混ざる気配すら見せない。

 

なぜ。

 

なぜこんな現象が起こるのか。

不思議に思った私は、理科を勉強した。

 

冷たい空気は、あたたかい空気よりも重い。

なぜなら密度が大きいから。

あたたかい空気は、冷たい空気よりも軽い。

なぜならあたたかい空気は密度が小さいから。

 

軽くてホットな空気は上に、クールで重たい空気は下へ。

だから部屋の上層部だけが、いつも灼熱のタクラマカン砂漠になりやすい。

 

密度が大きいと重たくて、密度が小さいと軽い。

 

はじめて知った。

 

密度っていうのは、何かというと、きっとそこに含まれる黒蜜の量が多いか少ないかとか、そんなようなことだと思う。

 

つまり、エアコンを駆使しても、あたたかい空気は黒蜜の量が少ないので、ふわふわふわわと部屋の上部にいってしまうし、冷たい空気は黒蜜の量が多いので、ぽた、ぽた、ぽたりと部屋の底の部分にたまっていく。

 

たしかにそう言われてみれば。

プリンや何かも容器の底のほうにカラメルがたまっているし、わらび餅や何かも上から黒蜜をかけたところで、蜜たちは放っておくと、どんどん下に流れていくではないか!

 

あれは密度が小さい(蜜の量が少ない、そもそも蜜じゃない)と上にいく、密度が大きい(蜜の量が多い、というより蜜そのもの)だと下にいく現象をそのまま体現していたわけか。

 

理科を学び、デザートを参照して、私はここに解決の手がかりを得た。

 

底に沈んだ甘い蜜を、上の層と一緒に味わいたいとき。

プリンのカラメルをちょっと上の部分に絡めて、味わいたいとき。

 

人はどうするか。

 

混ぜる。

スプーンで、混ぜる。

圧倒的に、混ぜる。

きっと、誰もがそうするはずだ。

 

かくして私は銀色のデザート・スプーンを両手にかまえ、朝に夕に部屋中の空気をかき混ぜるべく、上下左右に激しく振り回している。

 

蒸し暑いワンルーム

梯子を昇り降りする猫、

スプーンを振り回す人間の私。

 

見ようによってはメルヘンそのものであり、私の振る舞いも魔法少女さながらであるが、猛暑に悩む他の人たちも一様に同じ対策をとっているのか。

ふと考えると、エアコンの設定温度は少しも変えていないのに、部屋の中央を、ひや、と涼しい風が吹き抜けていく。

はいはーい、と返事をします夏は

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決して、決して、私はねこのことばかり考えているわけではなくて、何だかとても辛いこととか、出口が見えないこととか、出口というか入り口もどこだったんだ、みたいなこととか、本当にいろいろと悩ましいことがありすぎて、息できない、みたいな感覚になって、精神的な過呼吸に陥ったり、生きていけないわ、とお風呂場に閉じこもったり、閉じこもったところで何も起きなくて、何してんだろうと思ったり、私がそんな風にうろうろしている間に梅雨があけていたり、梅雨もあけたか、と気持ちを切り替えようとした途端に大雨がふったり、それでまたお風呂場に戻ってみたり、お風呂場に戻るどころか、家に帰れない人たちのことを思ったり、ドアの向こうで開けろと鳴いているねこを風呂場に招き入れたり、このまま生きていけないなら、一生このお風呂場で好奇心おうせいな猫と、好奇心おうせいというわけではないけれど、ごく普通に動くものを追いかけて遊んだりするもうひとりの猫と、そのふたりの猫とお風呂場人間として暮らしていこうかと、おもったり。
でもお風呂場にずっといるのはいやだにゃあ、と猫の気持ちを考えてみたり、そうこうするうちに、新聞の勧誘とか、Amazonの配達とか、お風呂場をでて、はいはーい、と世帯主として応対しなくちゃいけなくなって、せっかくだからお風呂場で描いた猫の絵をこうして皆さんに披露したりなんか、している夏のとある1日なのでした。
そんなわけで、ながいながい暑中お見舞いを、ここに申し上げます。

すてきな虚栄心、パルムドールとは距離を。

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6月某日、梅雨入り。

 

頭の中で急に文章がはじまる。

ためしにノートパソコンにて視覚化してみると、いよいよそれは新しい小説のかっこうをしている。

いやはや。

春先からふくらんでいた小説の構想がいよいよ食べ頃、もとい書き頃を迎えたのであるな、と納得し、数日間ぶっ続けで執筆。

姿勢がわるいのか、行いがよくないのか、さっそく首と背中を痛める。

歯磨きの時にうがいをしようと上を向くたび、頸椎に激痛が。

執筆を中断して、ひたすら昼寝をして養生。

出口を見失った頭の中の文章がくちゃくちゃに丸まってしまう。

出鼻をくじかれた気分。

 

6月某日、くもり。

 

家にばかりいるのも何だな、と思い、渋谷に映画を見に出かける。

 

出不精の私を渋谷まで動かしたのは、『勇者ヨシヒコ』の福田雄一監督による『50回目のプロポーズ』。

主演は山田孝之長澤まさみ

 

一応は恋愛映画のフォーマットを使っているものの、ふんだんに福田ギャグが散りばめられた秀逸なコメディだった。

終始劇場全体がクスクス笑いに包まれていて、空気がぽかぽか温かい。

面白い上映作品に居合わせた時ならではの、ほんのりとした客席の連帯感に浸る。

 

同じ映画館で、カンヌ映画祭でグランプリを獲った是枝監督の『万引き家族』が絶賛上映中であったが、脇目もふらずに『50回目のプロポーズ』などという軽薄なタイトルをチョイスできた自分が誇らしい。

 

いろんな映画があっていい。

気取らず、賢しらぶらず、パルムドール受賞作をスルーして、スクリーンをよぎる長澤まさみの脚線美に嘆息している自分はなかなかクールな観客じゃないか。そんなことを思いながら帰ってきた。

 

6月某日、土砂降り。

 

書き始めた小説を再開しようと思うが気が重たい。

首も背中もだんだんとよくなってきているのに、Macbookを開こうとすると巨石のように重たくて開けない。

なぜだろう。

小説を書くことはそれなりに面倒な作業ではある。

が、好きでやっているから別にそれが苦しいとは思わない。

ではなぜ。

 

いろいろと原因を考えて、状況を整理し、酒を飲んで酔っ払ったりして行き着いた答えは、

「書きたいけれど、今じゃない」

ということだった。

今でしょ!」と誰かに言い切られても、今じゃないものは今じゃない。

なんだなんだ、そうだったのか。

 

どうやら先の小説を読んだ人から、次も読みたい、もっとたくさん書くとよかろう、などと激励されたことにより、自分自身の心が「こうなったら次々に素晴らしい作品を作らねばならない」と知らず意気込んでいた模様。

 

人の期待に応えようとすることは、一見すると良さそうなことであるが、その動機を腑分けしてみると、実際は褒められたい助平心が元になっていたりする。

 

認められたい、褒められたい、は人の内側にきざす自然な心ではあるけれど、文学なり芸術なり、とかく表現というのは、自分をなくしていった先に初めて見えてくるものを作品として結晶化させる行為であって、そこに社会だとか世間だとかの目を意識する気持ちがあると、どうしても視界は悪くなるし、筆さばきも鈍る。

 

創作の苦しみ、などと言葉にすると体裁は悪くないが、そこにあるのは紛れもなく、ただただ人間としての虚栄心である。

どんなに芸術家を気取ってみても、自分は人並みのありふれた人間であるなぁ、などと思い、結果的には爽やかな心持ちに落ち着く。

 

執筆を中断して、しばらくは猫と遊んで暮らすことを決める。

いかなる栄光も絶賛も、それらと距離をとれる場合にだけ人に幸いする類のものであるとしみじみ思う。

お弁当箱に核燃料が。村上春樹も三島由紀夫も。

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恋人に勧められて日本の文学小説を読み始めたのは、15歳の夏休みであった。

 

初心者の私でも読めるだろう、と最初にレコメンドされた作品は、

三島由紀夫仮面の告白』。

そして、村上春樹ノルウェイの森』。

 

2作ともある意味リーダブルな作品ではあったけれど、コナン・ドイルシェイクスピアしか知らなかった牧歌的な女子高生のメンタルには、どちらもいささかセンセーショナルな内容であったと記憶している。 

 

死と性。

厄介な自意識とのガチの向き合い。

繰り出されるクサい比喩。

文学作品の織りなす、常識の埒外の世界観。

 

当時の私にとっては何もかもが強烈な初体験であった。

 

文学。

 

その禍々しくも魅力的な魔世界への入り口が、こともあろうに公立高校の図書室の一角に設置されている。

そして、厚紙でできた図書カードへの氏名の記入と引き換えに無知で平和な青少年にも大々的にそれらの魔書が貸し出されている状況が、その時の私には大変異様なシチュエーションに思われたものだ。

 

(その構図はまるで、よく晴れた遠足の日の朝に台所に立つお母さんがプラスチックのお弁当箱に核燃料を詰めているような、そんな恐ろしくシュールな光景を連想させた)

 

けれど、そんな出会いの衝撃とは裏腹に、私の10代の頃の読書というのは形ばかりのファッションに近いもので、それを文学鑑賞と呼ぶにはあまりに稚拙であったと今となっては少なからず残念に思う。

 

もちろん作品を読み、話の筋を頭に入れて、印象的なフレーズに心打たれることはままあった。けれど、それでも個別の作品の内容に本当の意味で触れることができたのは、年月を経てようやく30歳を過ぎてから、というのが正直な実感である。

 

三島由紀夫村上春樹も10代の頃に貪り読んだ。

 

そのように言えばいかにも文学において早熟であったように響いて聞こえはいいが、文字列の奥にある作品の姿を捉えるだけの眼力というのは、自分の場合はその後の人生を生きる過程において知らず遅れて蓄えられてきた。

 そんな気がしてならない。

 

そしてまた、私が本当の意味で「小説の書き手」というものに感嘆したのは、自分が文章を書き始めて、詩でも散文でもなく、「小説」というフォーマットを用いて作品を作ることを実践してみての事だから、それはもう本当についここ最近というタイムリーな話になる。

 

いずれにせよ、10代の時に一度は読んだ小説群を40歳近くになって改めて読み返した時にまったく初めての感動に行き当たるというのは不思議で得難い体験である。

 

それと同時に優れた骨太な作品なればこそ、多少は肥えた私の鑑賞眼を軽々と圧倒してなお力を余しているのだろう。

そのように推察する。

そこに感心することしきりである。

 

そんなわけで、先日から村上春樹ねじまき鳥クロニクル』という長編を読み返している。

 

この『ねじまき鳥クロニクル』は村上さんの小説家としての人気も大々的かつ安定したものになり、環境もコンディションも申し分ない、いわばキャリア・ハイの最中に絶妙に脂がのった筆で意欲的に描かれた大作、という印象を私は抱いている。

 

初めて読んだ当時(私が高校2年の頃に「ねじまき鳥」は書き下ろしの長編小説として発表された)にも、「なんだか村上春樹の新作すごいな」と思った記憶があるが、あらためて読み返すと当時は全然分からなかった成分を味わうような、新鮮な感動がある。

 

それは以前なら見えなかった「小説の設計図」がまるでレントゲン写真のように見えることだったり(そこには地図も持たずに散々歩き回った迷路の見取り図を手渡されたような、作者と作品の答え合わせをする喜びと俯瞰の視点に立ったときの興奮がある)、主人公である「僕」が歳をとった今の自分から見ると年下の男の子、であるというだけで小説の肌触りがかなり違うものに感じられたり、といった新たな発見だ。

 

そして、読みながら高校生の私が感じた「すごいな」の正体を少しずつ腑分けしつつあるのだが、この作品をはじめ、村上作品の醍醐味はやはり、テクノロジーが発達した現代だからこそより深く大胆に踏み込める「人間の意識」という領域において、小説的なアプローチを実践している点にあるのだと印象を強くしている。

 

小説という形式を使って「人間の意識の模型」を作ることは既に夏目漱石が実践しているが、漱石よりもよりダイレクトに分かりやすくやっているのが村上春樹という作家だと思う。

 

画家に例えるなら、漱石セザンヌ

春樹はピカソだ。

 

セザンヌは一見すると、林檎とか山とか、ごくごく普通の静物画や風景画を描いているようでいて、実はそこで空間の再構成とか抽象的な実験をいろいろとやっている。

(そのために同じモチーフ、同じ構図の絵を何百枚も描いている)

 

それに対して、村上春樹ピカソのように分かりやすい。誰が見ても「実験的」なことをやっているイメージだ。

分かりやすいがゆえに、描かれた絵の意図を読めない人がアウトプットされた結果だけを見て、「下手な絵」だと言い始めたりする。その作品の価値を決めるのは「写実性」ではなく、「実物を二次元平面に落とし込む時のプロセス」である、という事は多くの人には伝わりにくい。

 

そのような背景があるから、漱石のようにオーソドックスな物語としても読める作風の方がその小説の読み手の層は厚くなる気もするが、春樹がこれだけ支持を集めているというのは彼の小説がアウトプットの結果だけでも魅力的である、ということもさることながら、その下敷きになっている「小説によって作られた人間の意識の模型」というものが、いかに人を惹きつけるか。その証左であるように私は考えている。

 

そんなわけで、細部のディテールや読み心地の好き嫌いはままあれど、やはり代替可能な書き手がほかに見当たらないという意味で、村上春樹は本当に現代を代表する作家であるなぁという感慨を深めるとともに、その作品の「読み方」のようなものがより広く豊かに共有されることは自分の創作においても回り回って益あること、などと思ったりする。

 

三島由紀夫の話も書こうと思っていたのに、長くなってしまったのでまた次の機会に。ちなみに私が一番好きな村上作品のは、「ダンス・ダンス・ダンス」という長編です。「ジョジョの奇妙な冒険」でいうと第3部、「ターミネーター」で言えば、第1作を踏まえての「ターミネーター2」的な位置づけの作品で、「羊をめぐる冒険」という作品を読んでから読むことを強くおすすめします) 

面会の効用、渋谷の養老天命反転地。

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5月中旬某日。

 

引きこもっている。

 

人間との対話に乏しい毎日。

茶店での注文やよろず屋での挨拶を除けば、話らしい話をしていない。

 

社会性という筋肉がこのまま衰えて戻らないのでは。そんな不安が芽生え、なかば無理やりに出かけてみる。

 

近隣の書店で行われている本の出版イベントや、読書会といった集まりに参加。

発言の機会は十分にあり、多少なりとも内容のある会話をかわすことで、脳と社交性に刺激を与えたいと目論むが、催しの内容はどれも退屈極まりなかった。

うんざりした気分で帰宅。

 

茶店の注文とよろず屋での挨拶だけで、いまの私には必要十分量の社交生活だと思い知る。

 

5月下旬某日。

 

体のメンテナンスの効果が出てきたような気がする。

 

首の痛みもほとんど出なくなってきたし、眠りすぎることもない。

 

4月から始めた室内でのエクササイズも板についてきた。

体重や体脂肪といった数値にそこまで変化はないものの、1時間半程度のトレーニングが苦行ではなく習慣に変わりつつある。

 

我ながらとても素晴らしいことだと思う。

 

そんな矢先、飼い猫たちの毛づくろいを手伝っていたら、白猫の額の部分に瘡蓋を発見。

ブラシで毛をかき分けてみると、一箇所だけでなく額全体にわたって瘡蓋が広がっている。

 

ネコダニ、疥癬、皮膚癌、脱毛、免疫不全。

 

インターネットに散らばる不穏な単語を集めていると、恐ろしさばかりがそそり立つ。ひとまずかかりつけの動物病院を予約。

 

猫は何も知らず、瘡蓋まみれの頭で狭い部屋の中を無邪気に走り回っている。

 

夜、獣の小ささが哀れで真っ暗な部屋でひとり泣く。

姿見の中に自分の引き締まった腹筋がむなしく映っているのを見つけて、用心深く生きても避けられない不幸、という誰かの言葉が眼裏に浮かぶ。

 

5月晴天。

 

発明家のミサンガと渋谷の坂の上で待ち合わせ。

 

渋谷の坂の上は駅でいうと井の頭線の「神泉」という場所なのだが、土地の起伏と坂道によって構成されている駅周辺というのが、まるで岐阜にある「養老天命反転地」だ、という話で盛り上がる。

 

現代美術家であり、思想家でもある荒川修作の作品「養老天命反転地」。

この作品のコンセプトは「人間は死なない」というものであり、物理的に肉体が滅びた後も、土地の記憶として、あるいは編み込まれた時間の一部として、人間は死なず、場所と溶け合って生き続ける、という思想が埋め込まれている。

 

実際の「養老天命反転地」はカラフルな屋外アスレチック、という出で立ちなのだけれど、「鑑賞者が斜面や坂道で怪我をするのではないか」という安全性を懸念する管理者サイドに向かって、荒川修作は「そうでなくちゃ意味がない」と言ったという記事を何かで読んだ。肉体の可能性を、破損や不自由という広義の可能性も含めて、最大限に引き出し、意識化する装置として「養老天命反転地」は存在している。

渋谷円山町近くの迷宮のような路地裏のアップダウンを踏みしめながら、私は足元の地面に向かって「そうでなくちゃ意味がない」とは思わない。

私が思うと思わざるとに関わらず、作者不在で出来上がった「都市」というアート作品は、おのずと生と死のはざまのグラデーションをすべて含んだ器のように機能しているのだ。そのことを思って、人為的なものをあらゆる意味でやすやすと凌駕していく自然の巨大さ、そして残酷なまでの人間味の無さにしばしおののく。神というものがあるとすれば、それはこの自然の仕組みそのものではないのか、などと考える。

 

発明家ミサンガはアボカドを挟んだパンを3つ喰い、私はよく冷えた珈琲牛乳をすすって暑さをやり過した。眠ることによって絵が描けるアプリの開発話などを聞くうちに、太陽が西に落ちて、神の泉の天命反転地にまた新しい夜が訪れる。